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どろどろの沼のような不安

time 更新日:  time 公開日:2016/12/28

このブログでたまに暗い話を書いているけれど、実は私は現在目に見えて不幸という訳ではない。
ただ不幸になるのではないかという不安を常に抱いている。
いつからか分からないがかなり幼い頃からずっと抱いていたような気がする。

母親が誰それが病気だとか、あそこの家は夫婦仲が悪いだとか、○○には暴力団がたくさんいて怖いだとか、アフリカでは多くの子供が餓死しているだとか、そういう暗い話ばかりしていたような記憶がある。本当はそんなことはなかったのかもしれないが、他に何を話したのかあまりよく覚えていないのだ。
母親は「その人たちに比べたらうちは幸せ」と思わせたくて私にそんな話をしたのかもしれないが、それにより「この世では不幸なことや怖いことばかりが起きている」という不安を植えつけられたような気がしてならない。

それと私が小学校高学年の頃だったと思うが、母が車を運転していて、私が助手席に乗っている時に、「このまま車をどこかにぶつけて死んでしまおうか」といわれたことがある。母はその頃自宅で仕事をしつつ義母(私の祖母)の介護をしていた。また兄の引きこもりが始まった時期でもあった。
私はまだそこまでひねくれていなかったので、「いやだよ。私まだ若いもん!」などとおちゃらけてごまかした。すると車内の空気は少し和らいだ気がした。
しかしこれがよくなかったのだろうか。それから成長した私が重い話をしても、母もいつかの私と同じようにおちゃらけてまともな返答をしてくれることはなかった。
母と私は腹を割って話すということができなかった。それは私が大人になった現在でも変わらない。

また母親は、調子が悪い、どこそこが痛いといっては、鎮痛剤やら胃腸薬やらをしょっちゅう呑んでいた。いつも忙しそうにしていたが、あまり人生を楽しんでいるようには見えなかった。
現在でもたまにくるメールには体の不調のことばかりが書いてあり気が滅入る。
そのため、私はいつしか親に対し、「こんなに恐ろしい不幸だらけのこの世に何故自分を産み落としたのだ」という憤りを覚えるようになったのかもしれない(大人になった今ではもうあまりこういった感情は持っておらず、厄介な親戚位の距離感でつき合っている)。

現在自分は不幸ではないはずなのに、不幸な人を見ると心の奥底に沈殿している不安がざわざわと呼び覚まされる。いつか自分もこの人たちのように不幸になるのでは……という不安に苛まれる。

昔友人にこんなクイズを出されたことがある。
「電車がトンネルから出ると、向かい合わせの乗客の内の片方の顔がすすで真っ黒になっていた。もう片方の乗客の顔は綺麗なままであった。しかし顔を洗いに席を立ったのは顔が綺麗なままの乗客の方だった。何故か」
答えは「前の人の顔が汚れていたので、自分の顔も汚れているのかもしれないと不安に思ったから」。一方、顔が汚れている人は自分の顔が汚れていることに気付かない……。
私が不幸な人を見ると不安になる気持ちはこれに似ているかもしれない(違うかもしれない)。
違う点といえば、向かいの人の顔が汚れているのを見た乗客はギョッとするだろうが、私は不幸な人を見ると恐ろしいと同時に少しホッとする所だろうか。やはりこの世は恐ろしい所なのだ……自分の考えに間違いはなかったのだ、と。

中崎タツヤの漫画で、夫婦が2人の子供を連れて競輪場にやってくる話がある。
まず休日に家族で競輪場にやってくるそのこと自体に、主人公の男性はやるせなさを感じる。
そして騒いだ子供が父親に叩かれる所を見て、胸が痛くなると同時に怒りを覚える。
父親はともかく、母親がどこか別の所に子供を遊びに連れていってやればいいのに……と。
しかし帰り際に、その家族は案外仲が良く、絆も強そう……という光景を目にして、主人公は複雑な思いを抱く。周囲から見てどうであれ、本人たちは結構幸せなものなのかもしれない。

また園子温監督のある映画では、表面的には何不自由のない生活を送っているように見える女性がどんどん堕ちていって、最終的に寂れた漁村で売春婦になる。子供に放尿する所を見せたり客に殴られたりしながらもヘラヘラとしているその様子はまるで白痴のようであるが、何不自由のない生活を送っている頃よりもどことなく幸せそうに見える。

こんなようなことから、堕ちる所まで堕ちた方が、周りからはどう思われようとも、「不幸になるかもしれない」という不安から解放されて逆に幸せなのかもしれない……という気もしてくるのだが、やっぱり私は現在より不幸になることが恐ろしい。それを考えるだけで恐ろしいのだ。

しかし幸せでいることにも少し罪悪感を持ってしまう。世の中には不幸が渦巻いているというのに、自分ばかりが幸せでいていいものだろうかと考えてしまう。
この気持ちは、手塚治虫の『奇子

という漫画で、はじめは蔵に閉じ込められることを恐れていた奇子が、次第にその暮らしに慣れていき、数年後外に出られるとなった時に今度は蔵から出ることに恐怖を感じるようになったのに似ているかもしれない(違うかもしれない)。

何事にも前向きで、人付き合いも上手で、この記事に書いてあるようなことを微塵も考えない人……幸せになることを恐れない、躊躇しない人は、もしかしたら幼少期に親に「なんとかなるさ」という風に育てられたのかもしれない。
そういう人たちにはきちんとした「心の土台」とでもいうべきものがある気がするのだ。
私にはそれがない。
そこにはいつでもどろどろの沼のような不安が横たわっている。

この不安が、ある作家が感じていたという「ぼんやりした不安」と同じものであったとしたら……嬉しいような、恐ろしいような複雑な心境になるけれど、それとはまた別物だろうと思う(私には今の所自殺願望はないので)。