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霧雨ダンス・ホール

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霧雨ダンス・ホール

 丸谷 直樹 殿

 突然かようなものを送りつけて済まない。大学を卒業して以来だから、かれこれ八年の無沙汰になるか。それだけでない、久々の音信がこんなミットモナイ位に嵩高な封筒で、さぞかし驚かれた事と思う。くれぐれもお詫び申し上げたい。
 さて、これまた出し抜けで申し訳ないが、同封した原稿をなるたけ早いこと読んでくれ給え。よもや君も忘れはしまい、大学在学中、我等が友の犯人に仕立てあげられた、アノ酸鼻極まる大量殺人のあった事を。先の原稿というのは、その真相を暴き立てた手記なのである。
 そう、今明かす、我等が旧友は犯人に仕立てあげられた、否、黒幕が居ったと言うべきか。当時より己は真相を知っていた、知っておったに誰にも告げなんだ、十年近く己が胸の内にそれを閉じ込めておったのだ。
 君は己を責めるだろうか? 疑われたその時に、既に死んでいたとて友は友、全き濡れ衣であるというなら猶の事、何故にすぐさま殺人狂の汚名をば晴らしてやらなかったのかと、気色ばむやも知れぬ。しかし今まで閉じ込めておいたのにも、又、今更になって明かすのにも訳があるのだ。その凡その成行き記したのが当の原稿に他ならぬ。
 それを読み終える頃には、君はもしかあの事件の真相を知るこの世で唯一の人間となっているやも知れぬ。爾後のことは君の判断に任す。世に公表しようが捨て置こうが、それは君の勝手である。
 ともかくも、手記を君に託したのは、在学中の己にとって、否、人生においてとさえ言える、君が、一番の友人だと思えたからなのだ。これだけは覚えておいてくれ給えよ。
 では、何卒宜しくお頼み申し候。
                         丁 正

      *

 ガタピシ……ムシミシ、と微妙な縦揺れと横揺れ相俟った振動に見舞われ、おまけにギ……ギ……と金属同士が擦れ合うあのイヤな音。何らかの異変が起きたことは明らかであるのに、何故だかバスはのろのろと、その歩みを頑なに止めようとせぬ。
 揺れと音が止むと乗客たちのざわめきが擡頭してきた。その中で一際目立った金切声、四十代主婦のものと思われる、あのスポーツ・カーに擦ったんだわ……! 非難とも驚愕とも取れるそのオノノキに乗客一同静まり返る、主婦の指差す方に勢い目が行く。確かに、路上駐車のスポーツカーの横腹は無残、巨大な猫科の獣に引っかかれたが如く、表面の青色を剥ぎ取られ地肌露出、遠目にもはっきり見てとれる有様。
 誰からとなく運転手に注目、後ろから見た限り恬々然と信号待ちしておる。己は運転手の真後ろに腰かけつ。どうしたものか、何か声をかけるべきか、運転手は微動だにせぬ、背筋が職務遂行中デアリマスとでも言うようにピイ……ンと張りつめておる。
 折柄その脇に、あたかも昔日の女車掌のよう佇む手弱女がひとり、格好良い韓紅のスーツ、耳のすぐ下で切り揃えられた豊かな黒髪、他の乗客が皆座っている所為もあるが、それでなくとも際立つだろう艶やかさ、一体何所に隠れておったやら、今まで蕾の如くにちんまりと、息を潜めておったのか。運転手と共に乗客全員の視線を受けているにも関らず、それをものともせぬ悠然たる後姿。
   その女が運転手の耳に唇寄せる瞬間を己は見た、女は、腰の辺りに当る、運転手と此方仕切る銀色の棒に軽く手をかけ、上半身をチョイト乗り出した、そのしこなしがまるで蛇思わすしなやかさで……そして毒でもあるんじゃないかちう位てらてらした、真っ赤な唇を開いて、アノ……、道でも訊ねるようにおずおず切り出す、
 アノ……、バスごと引っくり返しちまえば……横ッ腹の傷なんかチイトモ目立たなくなるんじゃありませんコト……
真剣か何かで頬の肉ばっさと削げ落とされたよう、何だかそう思われる程に顔がいっぺんに冷えたのだ、運転手の耳元に緋の唇は囁き続ける、
 バスごと引っくり返しちまえば……チイトモ……わかんないわよ、擦った傷跡なんて……ウフウフ……引っくり返す……
 知らず知らずの内によほど身を乗り出していたらしく、バスが急発車するなり座席から転がり落ちてしまった、顔上げたその時、例の女と目が合った、綺麗な楕円の、少しく吊り気味の、猫のようにぱっちりとした澄んだ目……その白目と、顔色、喉元、耳たぶも、恐らく全身、粉雪塗したよう、青みがかった、モノスゴイ白で。
 視界の片隅に、女のと対照的に暑苦しい、運転手の首筋。皮の厚そうな蒼黒い肌を玉の汗がひっきりなし、ぽろっぽろっぽろっぽろっ流れ墜つ……再度女に目をやる、しとやかに、破顔一笑美しい唇から、夢にも思えぬ俗悪な、えげつない笑いが洩れ出る、ゲエッ……ゲヘ、グエ、グヘエッ……次第しだいに盛り上がる、その残忍至極な笑い声が……
 危ない、伏せろっ……と思わず叫んで頭を抱えた数秒後、先程のとは比べものにならぬ車体の揺れ、そして大音響……
 これが己とキイ子との出会いだ。

あたしのこと、よく警察に告げ口しなかったわねェ、ホ……ホ……、感心、感心、と、簡単な事情聴取から解放された己にキイ子はすかさず近づいてきた。運転手にヨタ吹き込んだ件の婦人。
「……言ったら、どうするつもりだったんですか」
「……何のことやらとシラきれば済む事だわネ……」
 モウ少しく悪びれた色見せても、と何だか口惜しくなる、が、手前とて警察に言った所でどうにもなるまいと思っていた。アレを聞いたのは恐らく己ひとり、小汚いいでたち二十歳そこそこの大学生のと、辣腕ビジネス・ウーマン風キイ子の言い分、果して警察はどちらを信用するだろう。キイ子がそそのかしたという証拠はどこにも残っておらぬ。肝心の運転手と言えば……見事車道に横転したバスの窓から引っ張りあげられる際、コレデ、目立タナイ、傷、ウフウフ……なぞとぶつぶつ呟いてあらぬ方見やる始末。
「ネ、とりあえずここを離れましょうよ……怪我なんかないんでしょ……他の乗客の誰かが『あの女……』なんて言い出すと厄介だからさ……あんた以外には誰にも聞かれなかったと思うんだけどね……さァ……」
 己の腕を引っ張って歩く道すがら、キイ子はあんた、名前は、年齢は、これから何所行くの、なぞと矢継ぎ早に尋ねてきた。そこでキイ子という名も初めて聞かされた。当然偽名だろうが聞き流した。これきり会う事もないと思っていた由。
「チョット……、もうここらへんで離して下さい、俺駅に戻るから……」
 腕振り放したそばから又すり寄って来、今度はしがみついて離れない。
「何所行くの、電車乗るの」
「そうですけど……貴女に関係ないでしょう、離して下さいよ」
「一緒に行くわ」
「何でですか、俺が行くのは大学ですよ……」
「ウフウフ、丁度いいわ、あたし大学ってイッペン行ってみたかったのよ……連れてってよ、ネェ……事故のせいで遠回りして行くんでしょう、電車賃なんか全部あたしが払ったげるからさ……ネェ……」
 己が腕にしなだれかかりイッカナ放そうとせん。傍で見るより小柄な女であったに、アチラ払えばまたコチラ、コチラ除けばアチラに吸い付くといった蛸の如くの粘り具合、大きに手間取ったが、いくらか揉み合う内力が尽きたよう、気持指が緩んだその隙を狙い雲を霞と駆け出した。
 いつもとは違うルートで漸う大学に行き着くともう二時限目の途中で、教室後部のドアからこっそり中に入ると最後列、お馴染の場所に友人の丸谷が陣取っていた。そそくさその隣に座り、鞄から筆記用具取り出しつつ、
「大変な目に合ったんだよ……バスが事故ってさ、横倒しになったんだぜ……」
 小声で丸谷に報告する。と、
「マタマタ……寝坊じゃないのかよ……俺にそんな嘘ついてどうなるんだよ、エエ……」
 奴さん、ニヤニヤして一向本気にしない。
「ホントだぜ、チャント警察に一筆書いてもらったんだよ……何時発の、事故を起した△△バスにこの人は乗っていましたなんていうね、ホラ……」
 丸谷に紙切れを見せたその時、空席であった逆隣に誰やら座った気配が。何心無くソチラ見やるとそれが果して、キイ子で。アッと声を上げそうになったが何しろ講義中のこと慌てて飲み込む。押し殺した声で、何だ、アンタ……と問えば、
「ホホ、ホホ、尾けてきたのに決ってるでしょ、アンタってば、てんで気が付かないんだから。お間抜けさんねェ、ホホ、ホ……」
 メモを返してきつつ、丸谷はキイ子に好奇の視線を送る。何でもない、と遮ると丸谷はキイ子に小さな会釈をして前を向いた。手前もひとまず受講に専念することにした。とにかく講義が終って、おおっぴらに話が出来るようになってからでないとショウコト無いちう所存。
 とはいうものの、やはり得体の知れぬ女が隣に居るのだからどうにも気はそぞろであった。ノート取りつつも、何故にわざわざここまで追っかけて来たのやら……駅に入って、数分電車を待っていたから、もしやあの女がついてきはしまいかと、考えないではなかったが、マサカと打ち消したのだ、如何や粋狂者でも、あの場から去ることにより縁は切れたものと諦めるだろう、……そも何の縁も生まれてやしない、あんな状況で……一体何が目当なのだろう、あのことを喋るなと、再度念を押す為にやって来たのか……?
 ぼんやり考えたる内、何やら下腹をもぞもぞと這い回ってくる気配……、何事かと見やると女は、机にモウ一方の肘ついて婀娜な微笑、艶かしく濡れた流し目をくれる……手前スッカリ困惑して、女の細い手首ヲバやにわにグッと握りしめた、それでも手首から先は、首切られてもまな板の上跳ね回る魚の如くに、びくびくと己が腿に触れんとす、捕えられて尚水水しい、美しい白魚、蘇芳の唇から笑みは一向絶える気配を見せぬ……
 心ならずも呆っとなった己、正気づいたのは丸谷の視線感じたおかげで。女の手を邪険に放りつつ何でもないちう風に丸谷に首振って見せた。丸谷は勘繰りの目配せを、己とキイ子とに向って同時に見せてから、ニヤラニヤラして前を向きつ。女の掌は講義中己が内腿を、電車内の痴漢よろしくネバネバと撫で回し続けた。

 講義が終って、ぼろぼろと生徒達が立ち上がる中、女の腕を、先程とは逆、今度はこちらから逃がすまじと引っ掴んで教室を出んとす、と、オイ……背後から丸谷に呼び止められた。
「彼女なんだろう……紹介してくれよ」
「イヤ、違うんだよ……」
 丸谷に全て言うべきか。言っても特に問題はないはずだ。しかし女の反応が気にかかった。女ひとりに何ができるとも思うが、御本尊少々挙動がけんのん、今の所ただ人形みたようにツンとすましたるばかりだが、己がバスで目撃したことを話し出すや俄かに乱暴狼藉を働くなぞいうことは……チョイト考えすぎにしろ、何より始めから話すとなると長くなりそうで面倒というのもあった、勢い嘘が口に上ることに。
「イトコなんだ」
「イトコ? お前の? フウン……」
 丸谷は目をギョロつかせてまるきり釈然としない様子。脳裏には女の掌が思い浮かんでおることだろう。
「チョイト悪ふざけがすぎるんだよネーこの姉さんは……こんな所まで来やがるとは、俺だってオッタマゲちまったさー、ハ、ハ、ハ……じゃ、チョイト送ってくるわ……」
 とまくしたてて足早にその場を去りつ。ひとまず女ときっちり話をつけてから、丸谷には順を追って説明すればよい……と女を引っ掴んだまま脇目もふらず歩いて来たは大学入口、さてどうしたものかと一旦立止まると、
「ウフフ……アンタあたしのこと、庇ってくれたのねェ……ステキ、ステキ、ますます気に入っちゃった、フ……フ……」
 猫のように額をば擦りつけてくる女。
「庇った訳ではない」
 憤然とした調子で返すが、アチラさんたじろぎもせず、
「まァ、どっちだっていいワ……それよりいろいろお話しましょうよ、お茶でも飲みながらさ……」
 手近の喫茶店にて。飲み物を注文して、落ち着いた所で、俺は誰にも喋りませんから、と早速切り出した。俺は警察にだって言わなかったでしょう、こんな所まで見張りに来なくたって大丈夫……友達にだって言わなかったでしょう、言った所で大した騒ぎにはならないだろう、いや、あんたがそれすらも警戒するというなら、本当に誰にももらさないと、ここで誓う、あんただって、四六時中俺を見張っている訳にはいかないだろう……というようなことを立て続けに述べた。途中コーヒーが運ばれてきた、キイ子は店員に一度も目をやらなかった。己が顔ばかりをシミジミと眺めてけつかる、先程咄嗟についた丸谷に対しての嘘、それに付き合っている気なのか、年下のイトコに久々会って嬉しいとでもいう、ゆかしい笑顔の思い入れ。
 丸谷はここには来ませんと、思わず口をついて出た。
「アラソウ……、丸谷って、さっきの子でしょう……どうしてイキナリそんなこと言うの……へェ、ナニナニ、あたしの演技が堂に入ってるって……ホホ、それはどうもありがとう、と言いつつあたし演技なんかしてないわよ、演技には自信がないこともないけど今はね、ただアンタに見とれていただけよ」
 と照れもせず言ってのけたのが、チイトモ蓮葉でなく、むしろ一本気感じさす、しかし何しろ面と向ってタッタ数分のこと、おいそれとは信じ難く、
「アノ、だから……一体何なんですか、俺は誰にもあのことはばらさないと、今誓ったばかりでしょう……先のことにしたって……」
「先のことって……」
「講義中のことですよ……」
「ホ……ホホ、ホホ、真っ赤になっちゃって、アンタってうぶなのねェ、かわいいわ」
「だからそうやって、い、色仕掛けで、口止めしようと目論んでいる訳でしょう……。そんなことは無用だとさっきから……」
「ねェ、名前を教えてくれてないじゃない、何ていうのさ……」
「は……」
「名前よ」
 優に爪などいじくりながらぴしゃり言い放つ。居丈高といえば居丈高、がそれがアンマリ様になってい、気圧されヤツガレ心ならずも名乗ってしまった。
「……丁正です。チョウ・マサシ」
「ウフフ、マサシね……ネ、マサシ、あたしがどうしてあんなこと言ったかって、あんた一度も聞かないわね……知りたくないの?」
 あんなこと、というのはバス車内でのことに違いない。
「そりゃあ、もちろん、何でかなとは思いますけど……」
 しかし聞いてはならぬ気がした。自分は警察にこの女のことを言わなかった、信じてもらえぬだろう気持と、やはり多少面倒がる気持があったことは否めない。己はあのキチガイ運転手が起した事故に巻き込まれた不運な一乗客者、それはレッキとした真実である。がしかし、自分とこの女とが下手に接触していたら、あの運転手が正気取戻し、この女のことを警察に喋り、万一取り調べ云々ということになった場合、とばっちりが来はしまいか……。アア、とんだお荷物、どうせ関係のないことと、チョットの手間を惜しんであの場でこの女を突き出さなかったのは己がミステイクであったか、一市民として見たこと全てお上に報告すべきであったか……。
 という我が心持なぞ、どうでもいいのか気がつかぬのか、キの字は早速ぺらぺらと喋り出した。……まァ、あの運転手が何と言った所で、この女に警察の手が伸びるとは考えにくいし……、万が一何かの罪に当るとしたって、大した罪ではないのではないか……そうして己とこの女とは本当に無関係であるから、巻き添い食うこともあるまい。どうせこの女と会うのは今日これきりだ、せっかくだから何故あんな面妖なことを運転手に吹き込んだのか……その訳を知るのもマタ一興、そして後にも触れることになろうが、実は自分この頃から小説を書き始めていた、そのネタになるやも知れんという、下心も芽生えた故……気分を切り替えて、話を聞いてみることにした。……


「桃狂い」「腹上の花」同時収録。ご注文は
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