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「ちゃんと磨かないとなあ」
満月みたよな顔形のお医者が言うのです。
「でもセンセ、奥歯磨くとオエっとなってしまうんです。特に右下の奥が。いえ、右上もですわね。いえ奥はどこもそこそこに弱いんです」
湿った口角指先で拭いっつ、あたし続けて言いました。
「オエっとならぬ歯ブラシだとか、あるのですかねえ」
「そういったもののことは、聞いた時ないねえ」
電気仕掛けの椅子の背がぐんぐんと持ち上がるにつれ、あたしの視界も徐徐に常の角度へと戻ってきます。
「練り歯磨きの種類を、変えたほがいいでしょうか」
「だからそういうことではないんじゃないかな」
お医者は、治療中よりヒトマワリほど小っさくなった丸頭つるつるやりっつ、
「ぼくは歯医者なんで、歯以外のこと、実はよく知らんのです。学校の勉強なぞ、実際働いてみると余り役立たないものでしょう、というか、使わないものからかたぱし忘れてってしまうのですねえ。でその使わないものがかなり多いっていう話なんですがねえ。
で、今のぼくの脳のシワといったら、それこそ歯についての云々のみに拠るといっても過言じゃあない位。いや少し話が逸れてますな。つまり言いたいのは、昔聞いたことがあった気がするんですが、まあこれも大学で習ったんじゃなくて別の所からの情報だと思うんですがね、歯を磨いていてオエっとなる方は、確か胃が悪いんだそうですよ。あれ胃だったかな。腸かな。両方かな。あはははは。
更に唇の隅に出来るデキモノ、あれも確か胃関連で、なんといったかな、なんちゃらの華と呼ぶのです。ハハハ・・・ふわ〜あ・・・」
お医者、菜の花いろのゴム手袋片方っつひっぺがしにかかりました。あたしは慌てて続きを訊く。
「胃によい食べ物って、なんでしょう」
「おかゆじゃないすかね、おかゆ」
ひとりで勝手にぺらぺらやっていた時とはうってかわったぞんざいな口調でした。この歯医者、熱しやすくさめやすいタイプだって、わかりやすいことこの上なしなんです。
「あ、あとカエル。そうそう。カエルをね、お茶のよにして煎じると万能薬って聞いたよ。勿論東洋の術なのだろうねえ。めんどっちかったら丸焼きでもいいんじゃない。ナンダカ他のことにもききそうだね。はは。あ、6時ぴったしになった。さあさ、早く帰って下さいな」
しっ、しっ、と電動椅子から野良犬の如くおったてられてしまいました。
「もう時間切れだからね、待合室の方にも帰ってもらって下さいね」
と受付の方の助手に言いおき、お医者スタコラ歩いていっちまいました。早速、待合室から悲鳴が聞こえてきます。
「イタイよう、歯がいたいんだよう」
ぴいぴいとガキの声です。
「お願いします。お願いです。3時から待ってたんですよ。こんなに痛がってるのに。ほっとけというの」
「皆さん朝から並ぶんですよ」
大柄な助手が居丈高に言う。
「朝から並んだって駄目な人もあるんですよ。それをああた、3時に来て、ハッ、たった3時間待ちでセンセの診察が受けられる訳ないんですよ・・・
市販の鎮静剤でも飲ませることですね。さァさ、帰った帰った」
初顔の若い母親、いと悔しげに唇かんでピイピイ言うコドモの頬ぴしゃり打つ。必死に後追う子に向かい、
「アンタのおかげで赤っ恥かいたじゃないの、この鈍感」
助手がそれ見てメロンのよな乳揺らし高らかに笑う。つられて子供の泣き声ワン・オクタァブはねあがる。あたしはそっと目を伏せご冥福祈るよにちょと伏せて、そんな騒ぎの横擦り抜けます。歯の治療日はいつもこんな感じでいちんちつぶれてしまうのです。
でもまあ問題ないんです。特にすることある訳でなし・・・とあたし、ダラダラダラと大量の唾液流しっつ考えます。あたし、唾液が特別多いのかしら。歯ァ磨いてっと舌の下の根っこのほにぷくうと唾液の湖膨らんでいくのがわかるのです。口開け放しているとあわあわと唾液いっしょくたでざあざあ滝みたよにほとばしる。歯洗いの為わざわざ髪きゅっとうなじでひとまとめにしたアタシ、顎流しに突き出してオエオエ5分ばかしやるのです。こんな調子だから、歯洗いがいつも億劫に感じられてなりません。
でもあたし、たくさん磨かないとならないわけがあるんです。オヤシラズを虫歯にしてはならぬのです。何故って、オヤシラズを抜くとあたし、蓄膿症もしくはそれに準ずるハナの病にかかってしまうらしいのです。詳しい説明は忘れてしまいましたが、歯の根ひっこぬくことにより、がらんどうが出来るので、それがまずいだとかなんとか。
蓄膿症の手術の時って確か、上の歯茎の水かきみたよなのぷちと切って、そっからざくざくっとハナのほまで裂くって聞いたことがある。上唇から目頭の辺りまで皮膚と筋肉切り離されてしまうってことかしら。風が吹いたらフレアスカートのよに鼻がぱたぱたなびくかもしれん。又は風見鶏の如く風向き察知してあっちこっち振り向く。正面から見ると、顔の中央でぐにゃり寝そべる鼻の穴、なんて、なんてことに。ぬは、は。とにかく、歯と鼻って、密接な関係であるのですわねえ恐らく。
そうしてあたしは胃を攣らせながらも、丹念に歯洗いを強いられる日々というわけなんです。
夫は朝、バナナと牛乳出しときゃあ喜んどります。がつがつバナナ貪り食う夫眺めっつあたし言いました。
「ねえ、あなた捕ってきてくれません?」
「何をだよ」
「カエルなんですが」
「いやですよ。何故よりによって、そんな」
「胃腸にいいらしいのよ。腎臓にも。確か動悸息切れにも。骨にも筋肉にも。あなたなんてほら、煙草も吸うことですし」
「おれがとりたてて弱いのは皮膚くらいのもんだ・・・それよりあんた、他にもっと有用なこと考えたらどう」
夫は真顔で言うのです。こんなひどい言葉、牛乳ひげハナの下にのっけて真顔で言うんだもの。とんだお笑いぐさとは正にこのこと。
夫は変わってしまった。あっくんが死んでから少し人が違ってしまったんです。あっくんは、小汚い川にうつぶせに浮かんでいた。
「あいつがやったんだ」
夫は言いました。今でも時たま、酔った時等に言う。幾度聞かせられたやらわかりませぬ。
「あやつが、おれの子を、ヤツの餓鬼に命じて、そして、そちて」
白目むいて掌わななかせアワワと泡ふきのけぞる夫。あっくんは、足滑らせて落ちたのだと何度となく言うても、聞かぬ。
あやつとはホンダという名の、夫の同級生、いじめっこだったそうです。そして今では学歴の差から、夫の部下。
アイツは、課長カチョウと人の顔見りゃゴマすってきやがって、内実は昔のままだ。根性がねじれねじれてネジリパン通り越しチエのワのよになっているのだ。あやつが卑屈にすりよってきてもおまえ、おれはぴしゃりはねっつけてやる。するとやつはマスマスへいこらしてくるがあやつのひね曲がった性根がその自らのうわっつらを承知しているわけがないのだ。
あやつ、おれを表立っていじめることが出来ぬフラストレーションから、おれのまな息子を、昔ながらの弱いいじめ法に則っていたぶり、終いにはおれを苦しめる為だけに川に突き落としたに違いない・・・
そういうこともあるやもしれぬ、そう言うあたしは、夫を宥める為だけでなく、本当に、そう思っているのです。
だけど、だからどうしたっていうんでしょ。
そうだとしたって、それを証明したところで、あっくんが体取り戻せるわけじゃないんだもの。
あたし、町の小さなペット・ショップの前で立ちすくむ。店の前にはオリが積まれてあって、そりゃかわいらしいウサギがいます、いたちや、リスもおります。ガラス窓とおして、店内の奥に水槽並んでいるのが見えます。恐らく目的のブツは、そこにある。が、あたくし、いざ奴がすぐ傍にあるかと思うと、背筋ざわついてきて、かあいらしい子ウサギの鼻ヒクヒクなる様目にやきつけただけ、店内には結局入らずじまいでござんした。
ぱあん、とピストル鳴って、横一列いたのが皆走り出します。小っさいあたしも、よくわからぬまま、まわりにつられて走ります。
前を行く子らは、両の手首を後ろでに一緒くたまとめられ、赤い鉢巻らしきものでかた結びしてあり、気付くと、あたしも同じでした。皆ある地点で、前こごみになり、顔をむるむると何かになすりつけるよにしてから、再び走ります。なんだろうとどきどきしっつつ、着いて見ると、テェブルの上に銀色の盆、白いさらさらの粉が満たしてあります。隣の子の様子うかがうと、惑うことなく、ぼふと音立て顔突っ込んだ。そのままもさもさと顔面探知機のよにして粉内さぐり、ガバリ起こした所口角からはみ出るは見紛うことなきそれ、カエルの太もも、ああああああああとあたくしオペラ界の歌姫の如し声はりあげその場でストンと腰ぬかしてしまいます。ぎろり、白粉まみれだるんとした蟾蜍口にくわえて女子は結膜炎のよな赤いてらてらした目でこちら睨み、さっと駆け出していきました。
あたくし尻餅ついて、泣き、ついでに粗相致してしまいました。大きな見物人らがわらわら寄ってきて、慰めてくれると思いきや、腰ぬけたあたしひっつかんで無理に立たし、驚いたことには、また別の腕らが、あたしの後頭部ぐいぐいやって粉に顔面つっこまそとするのです。
涙に濡れた頬は、うわっつら触れただけでもふるわれたきめ細かな白粉、よく吸いました。横目であたしは、確かめたくもないのに、見てしまいます、白い山。奴の背が、濃緑おうとつが、筋肉質の太ももが、浮き上がっている、下ごしらえ。
泣き叫ぶ、顎を伝って、粉ちりばめた唾液すじぞくぞくと、白山に影色の点ちらす、散ります。あたしはまたしても、見た。今度は上っ方に、ぼやっけた、泥人形のよなカオカオカオに交じり、ホンダさんの奥様の、サディスチックな、恍惚とした表情が、垣間見えます。
「あら、やだ、どうしましょ、いいのかしら、ホレ、えいや」
と卑屈な発言とは裏腹に、あたくしの横っ面を力の限り押さえつける、そのよこしまな掌は。
あたし、上からの圧力にどうにか突っ張りつつ、こんなことして只で済むと思うな、ホンダ夫人を、大人の心持に戻り、横目で睨みつける。こんなことして、あんたの旦那は一生平社員だ、いや、どこぞの小島へとばしてやったっていい、あたしの夫は、あたしのおっとは、あたちのおっとは、あんたの、
そんな間に、白粉ひきをくわえて走り去る後ろ姿、間違いない、あれは。小っさなあっくんの、後ろ姿・・・ ・・・
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