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母が亡くなって死への恐怖と生きることの虚しさがより増した

time 更新日:  time 公開日:2018/01/28

昨年の年末、母が亡くなった。
母は4年半ほど前に食道がんの手術を行っていた。食道と胃の一部を切り取る大手術であった。
手術自体ももちろん大変だったが、その前の抗がん剤の副作用がまたひどかった。めまい、吐き気、髪の毛が抜ける、目の奥がガンガン痛む――など。

そして手術後少しして、腸閉塞になった。手術のせいで腸の一部がくっついてしまったのだそうだ。そこに食べたものが詰まっていってしまうのだが、この痛みと苦しみは想像を絶するものであったらしい。
その後は腸閉塞の恐怖から一般的な食事を摂取することができなくなった。手術後から亡くなるまでの約4年半の間、スープやおかゆのような食事を続けていたのだった。
もともと細い体型の人だったが、更にやせて、身長が160センチ以上あるにもかかわらず体重は30キロ台になってしまった。

それでも少しずつ自分の好きなことを再開し始めて、外にも出歩けるようになった。
しかし手術からあと少しで5年――という所でがんが再発した。
亡くなる半年ほど前にリウマチという診断を受けていて、体が痛いといっているのはそのせいかと思っていたのだが、実はがんが原因だったようだ。
昨年の秋ごろからみるみる具合が悪くなって、あっという間に歩けなくなり、食べられなくなり、喋れなくなっていった。

亡くなる1週間ほど前に入院したのだが、その時は話すことはできずとも、話しかければうなずいたり首を振ったり表情を作ったりすることはできた。
しかし亡くなる2、3日前からそれすらできなくなった。ただ苦しそうにゼエゼエと息をするばかりになった。指に触れると力なく指が動いた。握っているつもりなのか、それとも反射的にそうなるのか、どちらなのか分からなかった。

看護師さんに「痛み止めは効いているのでしょうか」と尋ねた所、「あまり効いていなさそうですねェ」とのんきな答えが返ってきた。
「呼吸が苦しそうなんですが」といっても、「肺に空気が取り込めていないみたいですねェ」とこれまたのんびりとした返事であった。
いちいち患者に感情移入していたらやってられないのだろうが、それにしても口ぶりがあまりにも他人事すぎてなんともいえない気持ちになった。

ゼエゼエいっている母は更にやせこけて、まさに骨と皮だけになっていた。枯れ枝のような腕に看護師さんが点滴の針を刺そうとしたのだがあまりに細すぎるためなのか針をなかなか入れることができず、最終的には看護師さんが2人がかりで刺していた。

普段はウィッグをかぶっていたのだが、病院ではかぶっていなかった。抗がん剤のせいで抜け落ちた大部分の髪は結局亡くなるまで再び生えることはなく、白髪がまばらに生えているだけだった。
皮膚には深いしわが刻まれ、実年齢よりだいぶ老けて見えた。まるで老婆だった。
足と手の指先はチアノーゼで紫色に変色して冷たくなっていた。

若い頃の母の写真を見たら、絶世の美女とまではいわないが、若いゆえにそれなりにかわいらしかった。母親になってからも細身のスタイルは保っていて、若々しく見えたほうだった。それが亡くなる直前にはこんなにも痛々しい姿になってしまうのか――と恐ろしくなった。
病気の痛みや苦しみも恐ろしいが、容貌が衰えてしまうのもまた同じくらい恐ろしい。仏教の「九相図」を想起させられた。

亡くなったのが明け方の4時すぎで、連絡を受けてすぐに病院に向かったものの、家族の誰も死に際には間に合わなかった。
よくいうが眠っているような表情で、苦痛に歪んでいるようには見えなかった。最期の最期にはあまり苦しまずに済んだのだろう、と思いたい。

母の死の3日ほど前に、母の親友たちが面会に来てくれた。そこで昔の母の話を聞いて衝撃を受けた。母は実は父の他に好きな人がいて、父との結婚をいやがっていたというのだった。
それなのになぜ結婚したかというと、母の母――つまり私の祖母が、父の学歴を気に入って、母に父と結婚するように強くすすめたとのことだった。
親友たちは祖母の洗脳のようなものだったから仕方がない、といった口ぶりであったが、私は大いに呆れた。
自分の人生を左右するだろう重要な選択を母親とはいえ他人任せにするなんて信じられなかった。

母は私を母の思いどおりに暗に誘導するような節があり、当時ははっきりとは言葉にできなかったけれどそれになんとなくモヤモヤさせられて、高校生になったあたりから私は母親に反発するようになった。
傍から見ればただの反抗期であったろうが、それはだいぶ長いこと続いた。大人になって物理的に距離をおくことによりやっと少しおさまったが、最後まで母に対する不信感のようなものは拭えなかった。
母の親友たちの話を聞いて、もしかしたら母は自分がそういう育てられ方をしたので、私にも同じことをしていたのかもしれない、という考えが浮かんできた(私は母の思いどおりにはならなかったけれど――)。

そういえば、母が亡くなったのは祖母の納骨式の日であった(母が亡くなる1ヶ月ほど前に祖母が亡くなっていた)。祖母が寂しがって母を連れて行ったのかもしれない、と親戚たちは口にした。私はオカルトの類はあまり信じていないのだけれど、これには少しゾッとさせられた。

ところで母が父と結婚した選択はやはり間違いであったようで、うちの家庭はアットホームとはほど遠い冷えた雰囲気であった。そのせいなのかどうなのかは分からないが、兄は引きこもりになった。

母は、私が小さい頃はさすがに我慢していたのだろうが、私が大人になると、私に父のグチを吐き出してくるようになった。
もちろんというべきか、母は親友たちにも父のグチをもらしていて、親友たちの間で父の評判はすこぶる悪かった。兄も全面的に母の味方であった。
しかし私は父と割と気が合うので、母の肩を持つことはなかった。といっても、完全に父の味方という訳でもなかった。どっちもどっちだと思っていた。

兄は私に「そっちは(兄は自分のことを「こっち」、話し相手のことを「そっち」と呼ぶ)早く家を出たから父の本性を知らないのだ」といって父のことを毛嫌いしている。
確かに聞いた話によると父は割とひどい人間だった。暴力をふるうわけではないのだが、怒りっぽく、経済観念に乏しく、思いやりが少し足りないようだった。母も兄も「父は冷たい、もっと思いやりを持ってほしい」といって父を責めた。
しかし思いやりというものは持とうと思って持つものではない。自然とわき上がってこないならそれはもう仕方がない。無理に持とうと思っても苦しいだけだ。
なぜ母や兄にはそれが分からないのか、なぜ人を変えようとするのか、私にはそれが不思議でならなかった。

それに祖母の言いなりになって結婚相手を自分で選ばなかった母にも問題がある。
父のグチをきかされて、「そんなにいやなら離婚すればいいのに」と私がいうと、「今更そんなことはできない」と母はいった。恐らく世間体が悪いと思っていたのだろう。

父は確かにわがままな所があるが、他人の目を気にしてやりたいことを我慢するようなことはあまりないので、私は父と母、どちらかといえば、父の生き方を見習いたい。
そもそも母が病気になったのも、他人の目を異様に気にすることが原因のひとつではなかったろうかと思っている。また、他人に好かれたい、必要とされたいという気持ちも人一倍強かった。そのおかげか、外部の人たちには母はとても受けがよかった。いつでも人に囲まれていた。
その代わり一番大事な――一番大事なはずの家庭の問題から目を背け続けていた。故意なのかそうでないのかは分からないが、意識が完全に家の外に向いていた。母にとって家庭は舞台裏のようなもので、情熱を注ぐ場ではなかったのだろう。

兄は母をものすごく慕っていて、父のことは毛嫌いしているが、どうもこれは祖母が母にしたように兄を洗脳したのではないかと私は考えている。
2人は共依存のような関係になっていて、それが兄の自立を妨げていた気がする。
子供を支配したがっていた母と、支配されることをそれほどいとわない(ように私には見えた)兄。
しかし病気の母の面倒を誰よりもみてくれたのは兄なので、そういう育て方もありなのかもしれない。

母が亡くなっても私はほとんど泣けず、母が亡くなった日に、家に帰ってきて寝る時になって、「いい娘じゃなかったなァ」と思った途端に少し泣いた。それと葬儀の時に、母の親友たちに「面会に来てくれてありがとう」というようなことをいったら急に涙が出た。それくらいで、あとは割と冷めていたと思う。

悲しいというよりは、かわいそうだと考えていた。
母が好きだった人と結婚していたらどうなっていたんだろうか。
それと母は見栄っ張りであったが、基本的にはいい人だった。いい人であったが、そのため人に気をつかいすぎる所があり、それゆえかがんになってしまって、外ヅラはよかったので亡くなったことにより悲しむ人はまあまあ多くいたが、夫や娘にはそれほどは悲しまれていない――という母をドラマの登場人物のように客観的に見てしまい、「あわれな人だなァ」という気持ちになった。

母が亡くなったことを素直に悲しめないことに多少罪悪感があった。しかし悲しみという感情も思いやりと同様に持とうと思って持つものではなく、自然とわき上がってくるものであろうから、自分でもどうしようもなかった。

母は音楽を教える仕事をしていたのだが、その生徒さんたちは本当に母の死を悼んでくれた。親友や、一部の親戚も本当に悲しんでいた。
しかし上でも書いたが、それに比べると夫と娘はだいぶ冷めていた。
数多くの外部の人たちに悲しんでもらえるのと、家族に深く悲しんでもらえるのと、果たしてどちらが幸せなのだろうか。

――と考えて、私はすぐに「どちらが……」と比較するクセがあることに気付いた。
きっとどちらにもそれなりの幸せがあるのだろう。
母は大勢の人に囲まれたい性分の人だった。だからきっとこれでよかったのだ。

しかし亡くなってしまえば、人に好かれただとか尊敬されただとかは形としては残らない。悲しんでくれた人も、3日も経てば――いや、もしかしたら葬儀が終わった途端にケロリとして、普段どおりの生活に戻るのだろう。
母について「立派な人だった」「華やかな人生だった」といわれたことは少し嬉しくもあったのだが(母はそういわれたくて頑張っていたのだろうから……)、人に好かれよう、好かれようと神経をすり減らしているように見えた母の人生が私にはなんだか虚しく思えた。
それよりはやはり父のように自分勝手といわれようが、やりたいことはやる、やりたくないことはやらない、という生き方のほうがストレスがたまらなそうでいいような気がしている。

しかしどう生きようが結局最後に待っているのは老いや病気、死の苦しみなのだ……と思うと、どうやっても根源的な空虚感とでもいうものは払拭できそうにない。
人生が素晴らしいものだと信じてつゆほども疑わない人は――そんな人がいるのかどうかは知らないけれど――亡くなる少し前の人間をまだ現実に目にしたことがないのかもしれない。
日常では死や病気というものは巧妙に隠されている。しかしいつなんどきでも、今この瞬間にも、死や病気の苦しみにさらされている人たちが大勢いるのだ。
そしていつか自分も必ずその仲間入りをするのだ――そう思うと恐ろしくてたまらない。