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澁澤龍彦『快楽主義の哲学』まとめ

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最近仏教に関する本を何冊か読んだのですが、それに対するアンチテーゼ的に澁澤龍彦さんの『快楽主義の哲学』を思い出し、久々に読み直してみることにしました。
若い頃に読んで感銘を受け、これまでに何度か読み返しているはずなのですが、今回読み直してみた所ほとんど覚えていなかった(!)ので、これを機にまとめておこうと思います。

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まえがき

レジャーについて

「レジャーを楽しもう」というムードは、マスコミ、娯楽、観光などの余暇産業が作り出したもの。レジャーに快楽があるとしても、規格品の快楽に過ぎない。

この後も何度か似たような表現が出てきますが、澁澤さんはとにかく「規格品」が気に入らないようです。

若者について

「アプレ・ゲール」「全学連」などの頃の若者たちには悲壮感があった。それをよしとするつもりはないが、なつかしく思い出す。優等生的な青年が増えてきたことは実に嘆かわしい。

――と仰っていますが、そう書いている本人が東大出という……。確かにインテリの中では毛色が変わっているのでしょうが……。若者はこの言葉を真に受ける必要はあまりないかもしれません(目指すとしたら「優等生だけど真面目一辺倒ではない」くらいがちょうどいいのでは)。

人生には目的なんかない

  • 人生には目的なんかない。食って寝て性交して、寿命がくれば死ぬだけ。
  • 人生の目的とは何か、と聞かれて、すぐに返事のできる人はたぶん宗教を信じている人だけ。
  • 人生に目的がなければ、自分でつくり出せばいい。

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目的にすべきは「満ちたりた生活」

欲望を満たそうとする努力こそ、人間が生きている以上避けて通ることのできない人生の目標(宗教家やマゾヒストは除く)。

「満ちたりた生活」とは

消極的な「満ちたりた生活」幸福。主観的(あいまい)。持続的。現実的。激しさに欠ける。苦痛を回避。痛い目にあうよりもあわない方がいいという考え方。
積極的な「満ちたりた生活」快楽。客観的な基準がある。瞬間的。夢のようなもの。強烈。美味しいものを食べたいだとか、豪華なホテルで過ごしたいだとか、進んで快楽を獲得しようという考え方。

幸福より快楽?

幸福ではない。断じて幸福ではない。快楽だ。
オスカー・ワイルド

オスカー・ワイルド(『サロメa』の作者)は「楽しむことを義務」としており、人が義務におもむくがごとく快楽におもむいたらしい。
しかしこうなると禁欲主義に無限に接近しているので、適当な所でリラックスする必要がありそう。

二種類の快楽主義

大きく分けて2つの快楽主義がある。

東洋的快楽主義自然主義。反文明主義。最低の物質生活でぶらぶら遊びながら暮らしていく。ある意味怠惰。快楽原則のまにまに、あっちへふらり、こっちへふらりと流されていくヨットのような生き方。
西洋的快楽主義反自然主義。文明主義。建設的。前進的。ねちっこく、あぶらっこい生命力に満ちている。熾烈な快楽を求めるモーターボートのような猪突猛進的な生き方。

しかし目的はいずれも同じ。「人間の本能、欲望に忠実であること」。

エピクロスの快楽主義

幸福であるために、隠れて生きよう。
エピクロス

エピクロスは古代ギリシアの哲学者。エピクロスの思想は「快楽主義」といわれるが、東洋的でヨーロッパの伝統の中では毛色が変わっている。

自然と調和して生き、何ものにも煩わされない平静な心の状態(アタラクシア)に達することを求めていた。また死や時間の脅威から人間を解放することを追求していた。
社会生活を否定した隠者の思想。仏教的な「無常感」の上に立った、一種の美的な生活哲学といえる。
ただエピクロスは宗教的な来世の観念を完全に否定し、人間が追及すべき満足は現世の中にしかないことをはっきり打ち出している。

コクトーとアヘン

アヘンは生命を停止して、人間を無感覚にする。あの気持のよさは、一種の死から来るのだと思う。
コクトー

澁澤さんはアヘンを吸って酔う感覚を、「一種の東洋的な寂滅思想」「ニルバーナ(一切の煩悩の炎が消えた状態)的な快感」ではないかといっています。

東洋的快楽主義と西洋的快楽主義、どちらがすぐれているかは簡単に断定をくだす訳にはいかないとしつつも、

こういう徹底した東洋的な、自堕落な退廃にくらべると、西洋流の、金力と精神力とであがなう美の殿堂など、吹けばとぶようなけちなものに思われてくるから、ふしぎです。
澁澤龍彦『快楽主義の哲学』

とも述べています。

あとがき

上で書いた以外にも、樽の中に住んでいた哲学者ディオゲネスや、庭でピストルをぶっぱなして遊んでいたジャリ、自身の性癖をとことんまで追求したサドなど、様々な快楽主義者が登場します。それにより澁澤さんが主張したいのは、解説で浅羽通明さんも仰っているように、「日常の幸福よりも非日常の快楽を、人並みの凡庸ではなく孤高の異端を」ということなのでしょう。

快楽主義が東洋的、西洋的とに分けられていますが、人間年を重ねると東洋的快楽主義に傾いていくものなのかもしれません。私はもともと西洋的快楽欲はそれほど強くなくて、東洋と西洋、割合でいうなら7:3くらいだった気がするのですが、最近では9:1くらいになってきている感じです。物質は最低限でいいのでぶらぶら自由に暮らしたいという。
そういえば本書では意外なことに谷崎潤一郎にほとんど触れられていませんでしたが(美食家サヴァランの項で、日本では珍しい健啖家の作家として名が挙げられているのみ)、谷崎潤一郎の作風も、西洋的な快楽から東洋的な美を表すものへとだんだん変化していきました。

『快楽主義の哲学』が初めて上梓されたのが1965年なので、それから現在50年以上経っていることになります。
その間日本は狂乱のバブル時代(西洋的快楽主義)を通り抜け、現在ではすっかり元気がなくなったように感じられます。
そういうとなんだか寂しいですが、もしかしたら日本は成熟期に入り、東洋的快楽主義に目覚める人が増えてきているともいえるのかもしれません。

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