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太宰治と三島由紀夫のただ一度の出会い~「僕は太宰さんの文学はきらいなんです」

time 更新日:  time 公開日:2018/02/18

三島由紀夫『私の遍歴時代』

太宰治と三島由紀夫――この著名な2人の作家がたった1度だけ会ったことがあるということを、『回想 太宰治a』という本を読んで知りました。
その出会いは両者にとって良い思い出となるようなものではなく、むしろ険悪な雰囲気に包まれていたようで……。

その後三島由紀夫の本『私の遍歴時代a』を読んだ所、太宰治との出会いについて書かれた文章があり、『回想 太宰治』と少し相違する点はあるものの、概ね同じような流れでした。
なぜ2人の出会いの場は険悪な空気になってしまったのか――それは三島由紀夫が太宰治の文学をきらっていたからのようです。

当時の2人の状況

2人が出会ったのは、昭和21年12月のこと(太宰治が亡くなる2年半ほど前)。
当時太宰治は37歳。そこまで売れっ子ではなかったものの、若者にはかなり人気がある作家だったようです。
三島由紀夫は21歳。大学に在学中でしたが、既に短編小説が何作か雑誌に掲載されたことがあったのだとか。

なぜ会うことになったのか

編集者の野原一夫(『回想 太宰治』の著者)が後輩の学生たちに頼まれて、太宰治との出会いをセッティングしました。その学生の内のひとりが三島由紀夫でした。

三島由紀夫は常日頃から太宰治の文学批判をもらしていたらしく、それを聞いていた友人たちの間で「面白そうだから太宰治と三島由紀夫を会わせてみよう」という話になったようです。

「僕は太宰さんの文学はきらいなんです」

太宰治は酔っ払って学生たちとワーワー盛り上がっていたようなのですが、そんな中で三島由紀夫は太宰治に面と向かって辛らつな言葉を浴びせます。

僕は太宰さんの文学はきらいなんです

太宰に会いに行く道々、このひとことをどうしても太宰に言ってやろうと心に決めていたのだとか……。
なぜ三島由紀夫はそこまで太宰治の文学をきらっていたのでしょうか……?

三島由紀夫が太宰治の文学をきらっていた理由

『私の遍歴時代』によると、三島由紀夫は太宰治の著作をいくつか読んでいて、その稀有の才能を認めつつも、太宰治の作品にちらつく

  • 文壇意識
  • 自己戯画化
  • 上京してきた少年の田舎くさい野心(太宰は青森県出身)

これらを「きらい」「やりきれない」「生理的反撥を感じさせた」とこきおろしています。

文壇意識というのは、太宰が「芥川賞がほしい! どうしてもほしいんだよう!」ととち狂った行動に出たことなどから感じたのでしょうかね……。

詳しくは

「自己戯画化」については後に書こうと思いますので、3つめの「田舎くさい野心」について補足しておくと、三島由紀夫は自分が都会育ちなので、田舎ものに対して「依怙地な偏見」を持っているといっています。
田舎ものが「ひと旗あげてやる」と思わせるものに出会うと閉口するのだとか……。

つまり「田舎ものはわざわざ東京に出てくるな、そのまま田舎にすっこんでろ」という偏見を持っていたということなのでしょうか……? だとしたらものすごくイヤな奴なんですが……。
それも「今に至るまで」(『私の遍歴時代』が書かれたのは昭和38年。三島由紀夫38歳の時)と開き直っていて、「あの頃は俺も若かったからなァ……」と反省している風でもありません。「今でも田舎ものへの偏見を持っていますが、何か?」とでも言いたげなのが、いやはやなんとも……。

太宰治の自己戯画化について

三島由紀夫は、なぜ自分が太宰治の文学がきらいなのかについて、「自分(三島)がもっとも隠したがっていた部分を故意に露出する型の作家であったためかもしれない」という分析もしていました。

「三島由紀夫が隠したがっていた部分」について何か分かるかと思い、三島由紀夫の本を読み返してみようかと探したのですが見つからず……。
ですので、もうずいぶん前に読んだうろ覚えの印象なのですが、『仮面の告白R』などは告白といいつつストレートに心情を吐露したというよりはガチガチに作りこまれた文章だった気がします。飾り立てた、よそゆきの文章。人前に出すからには――というようなことを無意識に考えてしまう真面目な性質の人だったのかもしれません。

対して太宰治の文章は、自分のなまの感情をさらけ出し、かつ必要以上に低く見せるような感じでしょうか。
もちろん、文章にするからにはそこに多少の技巧や冷静さは必要でしょうから、なまの感情を書いている風に見せるのが上手い、ということなのでしょうが……。
これが三島由紀夫が嫌悪したという太宰治の自己戯画化なのではと思います。

絵でいうなら、三島由紀夫はアカデミックな正統派、太宰治は印象派といった感じかもしれません(あくまで私がそう思うだけであって、まるで的外れな考えの可能性もありますが……)。

太宰治はなんと答えたのか

ところで「僕は太宰さんの文学はきらいなんです」といわれた太宰治はどのような受け答えをしたのか――?
これは三島由紀夫と、編集者野原一夫の記憶に相違があります。

三島由紀夫は、太宰は下記のようなことを口にした、と書いています。

「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ」
三島由紀夫『私の遍歴時代』

一方、野原一夫は、太宰は下記の答えを口にした、と書いています。

「きらいなら、来なけりゃいいじゃねえか」
野原一夫『回想 太宰治』

どちらの記憶が正しいのか

太宰治と三島由紀夫、2人が出会ったのが昭和21年。
三島由紀夫の『私の遍歴時代』が書かれたのが昭和38年。この時点でもう既に15年以上経ってしまっています。
野原一夫『回想 太宰治』が書かれたのは更に年数が経った昭和55年のことです。

野原一夫は三島の『私の遍歴時代』を読んでいて、その文章中に記憶違いがあることを指摘しています。
例えば、三島は太宰の『斜陽R』の中の華族の生活が「自分の見聞きしていたものと違う」のでイヤになった、しかし『斜陽』が青年たちに熱狂的に受け入れられているのを見てますます太宰ぎらいになった、と『私の遍歴時代』に書いているのですが、太宰と三島が会ったのはまだ『斜陽』が書かれる前だったとか(『斜陽』が雑誌に掲載されたのは昭和22年)。

それとこれは記憶違いというか、単に感じ方の違いなのかもしれませんが、三島が「僕は太宰さんの文学はきらいなんです」といった時、三島由紀夫本人は「ニヤニヤしていた」と記しているのですが、野原一夫は「三島由紀夫はそれをいった時にニコリともしていなかった」ように見えたそうです。
三島由紀夫はニヤニヤ笑っているつもりでも、周りからはそれはただのひきつった顔にしか見えなかったのかもしれません。

野原一夫は、太宰が「やっぱり好きなんだよな」というようなことをいっていた覚えはない、しかし自分が聞き逃したり忘れたりした可能性もあるし、「きらいなら来なけりゃいいじゃねえか」の後にそういったのかもしれない、と書いています。
もしも太宰が「やっぱり好きなんだよな」というようなことを口にしていたのだとしたら、場を白けさせないために無理におどけてそういったのでは、という推測もしています。

ちなみに三島由紀夫は、太宰と自身の違いについて下記のように述べています。

私と太宰氏のちがいは、ひいては二人の文学のちがいは、私は金輪際「こうして来てるんだから、好きなんだ」などとは言わないだろうことである。
三島由紀夫『私の遍歴時代』

これは分かる気がします、三島由紀夫は何があっても恐らくおどけてみせたりはしなさそうです。
きらい、といいつつ、自分にはできないこと――己をさらけ出したり、道化のようにおどけてみせたり――ということを平気でやってしまえる太宰治が少し羨ましいという気持ちもあったのかもしれません。

私の希望

私は太宰治に「寂しがり屋だけど人前ではお調子者」といったイメージを持っているので、

「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ」
三島由紀夫『私の遍歴時代』

という台詞をいかにも「言いそうだなァ……!」と思ってしまいます。

しかし編集者・野原一夫の記憶にある台詞「きらいなら来なけりゃいいじゃねえか」の方が現実的で生々しい感じがします。こちらの方が真実味があるような……。

もしかしたらなんですが、三島由紀夫も「太宰治だったらこう答えそうだな」というイメージを持っていて、それが15年以上の時を経てあたかも現実にそういわれたかのように記憶として定着してしまった、ということはないでしょうか……?
小説家って、現実のできごとをドラマチックに受け止めて、それを真実と思い込んでしまうことがありそうではないですか……というのは私の偏見……?
しかし三島由紀夫の記憶の中の「太宰」と「三島」があまりにも漫画やゲームのキャラのようで、三島由紀夫が脳内でこしらえた作りものなのでは……という気がしなくもありません。

今となっては真相は藪の中な訳ですが……。しかしなんだかんだといいつつ、やっぱり太宰治には人なつっこい笑顔で、

「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ」
三島由紀夫『私の遍歴時代』

といっていてほしい気持ちもあります。その方がなんだかマンガチックで素敵な気がするので……。

三島由紀夫って性格が……

三島由紀夫は『私の遍歴時代』の太宰に関する文章の最後の方で、「あの頃の太宰と同年配になった」といい、また、「あなたの文学はきらいだ」と若者に面と向かっていわれた心持ちに察しがつくようになった、ともいっています。なぜなら自分も何度かそういう目にあったとのことで……。

自分に面と向かってそういうことをいってくる若者を、三島は「青臭い」、そして「許さない」といい、しかし自分が太宰にしたことについては「悔いはない」といっています。なんじゃそりゃ……。

これまでこのブログで太宰治についていくつか記事を書いていますが、

太宰治についての記事

これらの記事でも書いているように、太宰治はちょっと……いや、だいぶクズな所があります。しかしイヤな奴とはまた違う気がします。気が弱く、人に嫌われるのが怖くて、ついクズな行動に走ってしまう、という印象があります。

太宰治と三島由紀夫の出会いが険悪な雰囲気になった件については、太宰治には非がないように思えます。これについては全面的に三島由紀夫が原因といえるのではないでしょうか。三島由紀夫はクズではないのでしょうが、都会育ちのエリートのため田舎ものを馬鹿にしたり自分の過ちを認めなかったりと少し傲慢な所があるように思えます。
しかし三島由紀夫は三島由紀夫で歪んだ育てられ方をしたようなので、それについては同情すべき点もあるのかもしれません。

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追記:三島由紀夫のインタビュー動画がありました

3:50~6:15あたりで、三島由紀夫が太宰治について語っています。

  • 「女々しい(から嫌い)」
  • 「(自分と)似ている(から嫌い)」
  • 「太宰に溺れて、あんな風になりはしないかという恐怖感があった」
  • 「自分は(太宰とは)違うんだという立場を堅持しないと危ないと思った」
  • 「文学が死に誘うのは構わない。そこから作者(太宰治)が甦らなかった。作家と作品の関係が好きでない」
  • 「しかし才能は非常にある」

とのことです。