絵師の佐伯俊男さんが亡くなっていたことをつい最近になって知った。2019年11月のことだそうだ。
それを知った時はなんともいえない感情に駆られた。私は佐伯さんの絵のただの一ファンであるので、泣くほど悲しいということはなかったが、やはりなんだか寂しい気持ちになった。私の中では佐伯さんは偉人のような位置づけだった。巨星墜つ、といった感だろうか。
家にある画集を改めて観返した所、後期の美麗でカラフルな絵ももちろんいいのだが、私は初期の絵の方が好みだ。
輪郭太目、ほとんどモノクロ(たまにポイントで赤が入るくらい)、少し歪んでいるようにも感じられる線が味わい深い。
スポーツや対人ゲームなど、人と競い合うことに関しては技術が上がれば上がるほど有利だろうが、絵や音楽、映画などでは上手けりゃいいというものではないから不思議だ(もしかしたら芸術的な分野に関しても技術が全てだという人もいるかもしれないが、あくまでも私にはそう思えるという話)。
それにしても、佐伯俊男さんだけに限った話ではないけれど、誰が亡くなっても世の中は平常運転なのだよなァ。もちろん自分がいなくなる時も。当然といえば当然だし、大騒ぎしてほしいかといわれたらそんなことはないのだけど、なんだか虚しくもある。
いろいろあったが、死んでみりゃあ、なんてこった、はじめから居なかったのとおんなじじゃないか、みなの衆
山田風太郎『人間臨終図巻 中』
という山田風太郎さんの言葉を思い出したり。
しかし佐伯俊男さんのような方が絵を残してくれて救われる人もいる。私にとって佐伯俊男さん、また作家のシオランなどは、サルトル『嘔吐』の主人公ロカンタンにとってのレコードのような存在なのかもしれない。
人生は虚しい――しかし運悪く生まれてしまった、しかもそれに気付いてしまった後世の人々(ごくごく少数だろうが)の琴線に触れるような絵や文などを、私もひとつでも残せたら素敵だなと思う。残ろうが残るまいが人生が虚しいことに変わりはないだろうが(だからこそ芥川龍之介も川端康成も自殺したのだろう)。
folder 雑記
tag 絵