澁澤龍彦さんの『快楽主義の哲学』を読み返した所、エピクロスの快楽主義について興味がわいたので『エピクロス 教説と手紙』という本を読んでみることにしました。
澁澤さんが「東洋的快楽主義」と銘打っていましたが、確かに西洋的でエネルギッシュな快楽主義とは一線を画していて、かなり仏教に近い哲学に感じられました。以下に私が気になった点をまとめてみようと思います。
目次
エピクロスとは
古代ギリシアの哲学者。小さな土地を買い、多くの弟子たちをそこに集め(『庭園学校』と呼ばれている)、哲学の研究に励みながら、質素かつ友情にあふれる生活を送りました。
ちなみにエピクロスが生まれたのは紀元前341年、仏教の開祖ブッダが生まれたのは紀元前5世紀ごろとのことなので、ブッダの方が100年以上早く生まれています。
エピクロスの快楽主義
隠れて、生きよ。
『エピクロス 教説と手紙』断片(その二) 86
騒然とした世の中から距離を置き、ひたすら個人的な自己充足(アウタルケイア)――肉体において苦しみのないことと、心境の平静(=アタラクシア)とを旨とする哲学。
「快楽主義」というとつい酒池肉林的なイメージを描いてしまいますが、実は東洋的な「隠者の思想」を思わせる哲学です。
なぜ隠れて生きるのか
人々からの損われることのない安全は、煩いごとを排除しうる何らかの力(個人的または社会的な力)によっても、或る程度までは得られるけれども、その最も純粋な源泉は、多くの人々から逃れた平穏な生活から生まれる安全である。
『エピクロス 教説と手紙』主要教説 一四
大勢の人と関わると面倒ごとが多いから、「隠れて、生きよ。」 という訳です。
しかし「友情大事!」というような言葉も繰り返し出てきます。仏教でも、基本は孤独に生きよと説きつつ、「賢明な人となら一緒にいてもいい」という教えがありました。そういった感じで、信頼できる少数の人と交流を持ちつつも、煩わしいことが多い俗世間からは離れて暮らそう、ということでしょう。
欲望の種類
エピクロスは欲望を「無駄な欲望」と「自然的欲望」に分けました。「無駄な欲望」とは名誉欲や権力欲など。
更に「自然的欲望」を「必須」のものと「単に自然的」なものとに分けました。
自然的欲望
飢えないこと、渇かないこと、寒くないこと、これが肉体の要求である。これらを所有したいと望んで所有するに至れば、その人は、幸福にかけては、ゼウスとさえ競いうるであろう。
『エピクロス 教説と手紙』断片(その一) 三三
必須 |
|
---|---|
単に自然的なもの | 充足されなくとも苦しくはないが、とくに欲求の激しいもの
など |
「自然的欲望――必須」が、エピクロスの求める「静的な快」に繋がります。
エピクロスの求める静的な快
- 肉体において苦しみのないこと
- 霊魂において乱されない(平静である)こと
喜び、満悦、道楽者の快、性的な享楽などは「動的な快」として、あまりいいものとはされていません。
わずかなもので満足
水とパンで暮しておれば、わたしは身体上の快に満ち満ちていられる。
『エピクロス 教説と手紙』断片(その二) 37
もし君がピュトクレスを富ませてやりたいなら、財産を増してやるのでなしに、かれの欲望を少なくするようにしてやりたまえ。
『エピクロス 教説と手紙』断片(その二) 28
ピュトクレス=エピクロスの弟子
貧乏は、自然の目的(快)によって測れば、大きな富である。これに反し、限界のない富は、大きな貧乏である。
『エピクロス 教説と手紙』断片(その一) 二五
十分にあってもわずかしかないと思う人にとっては、なにものも十分でない。
『エピクロス 教説と手紙』断片(その一) 六八
欲望はきりがない。幸福のハードルを下げ、わずかなもので満足できるのが静的な快ということでしょう。
「もっともっとと貪る心」を害とする仏教に似ています。
たまにはぜいたくしてもいい
エピクロスは、
いずれの快も、それ自身としては悪いものではない。
『エピクロス 教説と手紙』主要教説 八
といっています。しかし、
- ある種の快をひき起すものは、かえってその快の何倍もの煩いをわれわれにもたらす
- (ぜいたくによる快について)それに随伴していやなことが起るがゆえに唾棄する
とのこと。快だけでなく、同等もしくはそれ以上の苦をもたらす場合、その快は避けるべきということでしょう(逆に、大きな快が得られるのなら苦も避けるべきものとは限らないとのこと)。
また質素についても、
質素にも限度がある。その限度を無視する人は、過度のぜいたくのために誤つ人と同じような目にあう。
『エピクロス 教説と手紙』断片(その一) 六三
苦行のようなことをする必要はないということでしょう。このあたりも仏教の「中道」と相通ずるものがある気がします。
ただエピクロスは、簡素な食事に慣れることについて、健康のためであることと並べて、「われわれがたまにぜいたくな食事をする時により楽しめるから」とも述べています。たまのぜいたくが許されているのはなんだかちょっと嬉しい所です(仏教ではたまのぜいたくについては言及されていない?)。
死について
死はわれわれにとって何ものでもない。なぜなら、(死は生物の原子的要素への分解であるが)分解したものは感覚をもたない、しかるに、感覚をもたないものはわれわれにとって何ものでもないからである。
『エピクロス 教説と手紙』主要教説 二
死んだら何も感じないから怖がることないよ――ということでしょう。それはまあそうなんですが……死ぬ直前に痛かったり苦しかったり惨めな思いをしたりするのがいやな訳で……。
しかしそういいつつもエピクロスも死についてはいろいろ考えていたようで、
その他のすべてにたいしては、損われることのない安全を獲得することが可能である。しかし、死にかんしては、われわれ人間はすべて、防壁のない都市に住んでいる。
『エピクロス 教説と手紙』断片(その一) 三一
ともいっています。「死」というイベントは重要だけれど、死んだ後のことは考えるな、ということでしょうか。
来世の存在は否定
われわれの生まれたのは、ただ一度きりで、二度と生まれることはできない。これきりで、もはや永遠に存しないと定められている。
『エピクロス 教説と手紙』断片(その一) 十四
エピクロスは唯物論者なので来世の存在は否定しています。ただ後で書きますが、神の存在は否定しなかったというのが面白い所です。
反出生主義を全否定
エピクロスは「生きるということがそれ自体好ましい」と述べています(その根拠や理由らしきものは書かれていませんが、きっぱりと言い切っています)。そして、
地上にある人間にとって何よりもよいこと、それは生まれもせず、まばゆい陽の光も目にせぬこと。
だが生まれた以上は、できるだけ早く冥府(ハデス)の門を通って、うず高く積み重なる土の下に横たわること。
テオグニス『エレゲイア詩集』
というテオグニスの詩を引用し、「こんなことをいうならさっさとこの世から去ればいいのに」と文句をつけています。
「苦がないこと」をいいこととするエピクロスであれば、反出生的な考えに至りそうなものなのですが……これは意外でした。
ただ私もテオグニスの上の詩については全面同意とはいえなくて、生まれないのが一番面倒がなくていいかなとは思うのですが、生まれた以上はできるだけ死ぬのを先延ばしにして楽しく生きた方がいい気がします。
恋や性交は「動的な快」
「快楽主義」というと恋や性を謳歌しそうなイメージがありますが、エピクロスはそれらを「動的な快」として忌み嫌っています。
見たり交際したり同棲したりすることを遠ざければ、恋の情熱は解消される。
『エピクロス 教説と手紙』断片(その一) 一八
性交が、ひとを益することは決してない。もしそれが害を加えなかったならば、それだけで足れりとすべきである。
『エピクロス 教説と手紙』断片(その二) 8
断片(その一) 五一でも性交について似たようなことをいっています。
「生きるということそれ自体が好ましい」はずなのに、性交はひとを益することは決してないという……。それならば人間は一体どうやって生まれればいいというのか……? 子作りのための性交のみ許されるということなんでしょうか。
苦しみについて
激しい苦痛はすぐにおわるし、長くつづく苦痛は激しくない。
『エピクロス 教説と手紙』断片(その二) 64
苦しみは連続的に肉体のうちに存するものではない。かえって、極度の苦しみは、きわめて短い時間しかそこには存せず、肉体の快をたんに超過するだけの苦しみも、幾日となくつづくわけではない。かえって、長期にわたる病気の場合には、肉体において、快の方が苦しみをさえ凌駕するものである。
『エピクロス 教説と手紙』主要教説 四
本当でしょうか……? これにも根拠や理由らしきものは見当たらず。また、
過度の苦痛は死に接するだろう。
『エピクロス 教説と手紙』断片(その二) 65
ともいっています。そりゃそうだ……。
過度の苦痛はそんなに長く続くことなくすぐに死ぬ、死んだら無感覚になるから苦しみを恐れることはない、ということなんでしょうか。
エピクロスが最後の数日間に書いた手紙によると、「わたしは排尿がまったく困難となり、ひとをその生涯の最後の日へと導くかずかずの苦しみを受けた」とのこと。それでも知人に「弟子の子供たちの面倒を見てほしい」とお願いしたり、「君とこれまでかわした対話の思い出で、霊魂の喜びに満ちている」と書いたりしています。
私ならまず「やっぱり思ったよりつらかったわ」と弱音を吐いてしまいそうですが、そういった言葉は見受けられず……さすがです。ちなみに死因は膀胱結石だったとか。
無神論者ではない
エピクロスは唯物論者であったので、「星は粒子の結合にすぎない」と主張しました(当時は天体が神的なものと考えられていた)。しかし神の存在を否定した訳ではなく、神々も原子の集合と考えたのだとか。ただ唯物論の見地からは「それってちょっとどうなの」と疑問符がつく説だったようです。
運命ではなく運
エピクロスが「すぐれた人」として挙げている特徴のうちのひとつに、「運命(必然性)を嘲笑している」というものがあります。「すでに起こることが決まっている」のではなく、人間には自由意志があるという立場をとったのだと思われます(ただし中には必然的に生じるものがあるとも)。そして、
大きな善にせよ、大きな悪にせよ、そのきっかけが、偶然によって、提供されるにすぎない
『エピクロス 教説と手紙』メノイケウス宛の手紙
とも述べています。原因があって結果があるという仏教の「縁起」とは違い、(全てではないが)いいことも悪いことも偶然起きるものなのだ、ということなのでしょう。
あとがき
「生きていること自体はいいことなのだが、俗世間からは離れよう」という考え方は興味深いです。
また「わずかなもので満足」「たまにならぜいたくしてもいい」という教えにも概ね同意なのですが、反出生主義を全否定しているのがちょっと残念(しかもネットで反出生主義者を煽る人と同じようなことをいっているし……)。死や苦しみの概念についてもいまいち納得いかず……。
ただ「『ブッダのことば スッタニパータ』と反出生主義」という記事などでも書きましたが、誰かがいったことを全てそのまま鵜呑みにするのではなく、いろんなことを見たり聞いたり経験した上で、それらのいいとこどりをして自分なりの生きるルールのようなものを築いていけばいいのかなと思います。