少し前のことなのですが、なぜだか突如として私の中で太宰治ブームが起きまして(現在は既に収束気味)、太宰治の評伝を何冊か読みました。
心中(未遂も何度か)、麻薬中毒で入院、愛人に子供を産ませる……などなど、無茶苦茶なことをいくつもやらかしていますが、その反面繊細で、チャーミングで、ユーモアがあって……なんだか憎めない人だったようです。
以下で私が好きな太宰治のエピソードを5つ挙げてみようと思います。
目次
画家の棟方志功に「うるせえ、だまっとれ!」と口走る
太宰治『善蔵を思う』に出てくるエピソード。
青森県出身の芸術家が集まるパーティーに招待された太宰治。
このようなパーティーに招待されるくらいなので、無名の作家ではなかったはずなのですが、故郷では作品そのものよりも本人の醜態の方がよく知られていたようです(もしかしたら太宰治の思い込みも多少あったのかもしれませんが)。
『善蔵を思う』からは、そういったパーティーにお呼ばれして、「これは名誉なことだ」と喜ぶ気持ちと、「噂よりもちゃんとした人ではないかと思ってもらわなければ」という気負い、また、「自分のようなものがこういったパーティーにのこのこ出席してもいいのだろうか」という不安が入り混じって、大いにテンパッている様子がよく伝わってきます。
そしてパーティー当日、緊張を紛らわすためにお酒をグビグビ飲みながらどうやって自己紹介すべきかと逡巡し、なんだかもうどうにでもなれという投げやりな気持ちになってぼそぼそ自己紹介し始めた所、「(聞こえないので)もう、いっぺん!」といわれます。それに対して太宰が「うるせえ、だまっとれ!」と思わず口にしてしまいます。
『善蔵を思う』にはこの「もう、いっぺん!」といったのが具体的に誰かということまでは書いていないのですが、『桜桃とキリストa』という評伝によると、これは画家の棟方志功だったとのこと。
棟方志功は頼まれてもいないのにその場をしきったり、他の人の自己紹介に合いの手を入れたりしていたようで、もしかしたら太宰は「俺はこんなに悶々としているというのに……」と棟方志功のその天真爛漫なキャラにちょっとイラッとしていたのかもしれません(そうだとしたら完全に八つ当たりですが……)。
しかし実は太宰治は棟方志功の絵を早くから認めていて、まだ棟方志功が無名だった時代に油絵を購入していたそうです。ホントは好きなのに冷たくしてしまうって……よくある恋愛漫画のようではないですか……。
帰り道では「故郷にまたゴロツキという噂が広まってしまう」と落ち込み、人力車を引くオジサンにまで八つ当たりをする太宰治。小さい、人としての器があまりにも小さすぎる……。
しかし優しい面もあって、『善蔵を思う』には、きっと詐欺だろうと疑いつつも押し売りから薔薇を買ったというエピソードも出てきます。
恐らくですが、太宰治は詐欺のようなことまでして生活しなければならない者を、ただの悪人というよりは「弱者」だと感じたのかもしれません。そしてその他のエピソードからも伺えるのですが、太宰治はどうやら生活力のない「弱者」にシンパシーを覚えるようなのです。
逆に、権力を振りかざす人間には必要以上に食ってかかる傾向があるようです。しかし自分も権力欲や名誉欲を完全には捨て切れず、それに自己嫌悪を覚えたり……していたのかも(この辺は半分想像)。
ちゃんとした大人なら「それは優しさではない」とバッサリ切って捨てるような、生きる力の弱い人なりの歪んだ優しさとでもいうものを持っていたのかなァなんていう気がします。
ちなみに、『善蔵を思う』というタイトルにもかかわらず、葛西善蔵については特に触れられていないのがまた面白い所です(葛西善蔵と自分を重ね合わせていると思わせる数行の文章が出てくるのみ。しかしこの数行の文章がまた胸にくるのです)。
親友の檀一雄を借金のカタとして置き去りにする
太宰治の奥さんに頼まれて、熱海にいる太宰にお金を届けにいった檀一雄。
しかしそのお金を使って2人で豪遊してしまい、宿代が払えなくなります。
仕方がないので、太宰治が「菊池寛にお金を借りてくる」と東京に帰り、檀一雄は借金のカタとして熱海に残ることに。
しかしいつまで経っても太宰が戻ってこないので、痺れを切らした檀一雄が宿の人と共に東京に帰ると、太宰治は師匠の井伏鱒二の家でのんきに将棋を指していた……!
檀一雄が怒って詰め寄ると、太宰は泣き出しそうな顔をして「待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね」と無茶苦茶な返答をしたといいます。一瞬だまされてしまいそうですが、いやいや、この場合どう考えても待つ方が辛いだろうよ……!
『走れメロス』の元になったのは、シラーの詩『人質』ということなのですが、檀一雄は、その他にもしかしたら熱海事件も『走れメロス』のベースになっているのかも……と考えたようです(太宰治はメロスと違って戻ってきませんでしたが……)。
もしかしたらなのですが、太宰治には、重大な問題が起きても、放っておけば時間や他の誰かが解決してくれる……というか、そうなったらいいなという甘えがあったのかもしれません。
熱海のエピソードとはまた別の話なのですが、妊娠中の愛人が弟と共に太宰治を訪ねてきたにもかかわらず、2人をバーに連れていきドンチャン騒ぎをし、2人とまともに話そうとしなかった……というエピソードからも、そういった性格が垣間見えます。
大御所作家の志賀直哉に食ってかかる
はじめに太宰治が『津軽』という作品の中で暗に志賀直哉を批判した所、それを知った志賀直哉が根に持ったのか、太宰治の『犯人』や『斜陽』を雑誌上でけなした、するとそれに腹を立てた太宰治が、『如是我聞』という随筆で、今度は名指しで志賀直哉を批判した……という流れのようです。
文学者同士の批判というと高尚な内容を想像するかもしれませんが、この件に関しては全くそんなことはなく、志賀直哉は太宰治の作品について「つまらない」「閉口した」などと述べ、太宰は太宰で志賀直哉のことを「アマチュアである。六大学リーグ戦である」「成金」「エゴイスト」と攻撃するという、割と大人気ないやりとりが行われています。
しかし大先輩に公の場でここまで反抗するのはだいぶ勇気がいったのではないかと思います。太宰は個人攻撃がしたい訳ではなく、これは「反キリスト的なものへの戦いなのである」と主張しています(しかし志賀直哉のことをケチョンケチョンにこきおろしていますから、やはり個人的に腹が立ったというのももちろんあるとは思いますが……)。
権力を笠に着て偉そうな態度をとる人間を好きな人はあまりいないはずですが、本人を前にしてはなかなかいえないものです。志賀直哉が権力を笠に着ていたのかは分かりませんが、太宰治にはきっとそう見えたのでしょう。
太宰は、「立場が上の人ほど弱い者には優しくすべきだ」というような考えを持っていたのかもしれません(だからなのか後輩にはとても優しかったようです)。
しかし傍目から見て明らかに「立場が上の人」でも、本人が案外それを自覚しておらず、後輩を無意識にライバル視している可能性もありますからね(手塚治虫の才能ある後輩への嫉妬は凄まじいものだったようです)……。
そうだとするなら、志賀直哉は太宰治のことを実は結構買っていたといえるのかも……?
そしてもし本当にそうだとして、太宰治がそれを知ったら、途端にコロッと態度をひっくり返しそうな予感……。
自分の悪口を耳にしておいおい泣く
昭和23年のお正月に、井伏鱒二の家に挨拶に行った太宰治。酔って寝てしまい、目を覚ますと、ふすま越しに自分の悪口が聞こえた。「(太宰治は)いい気になっているピエロだ」と笑っている数人の声……(『桜桃とキリストa』)。
昭和22年に発表した『斜陽』がベストセラーになったことで、作家仲間に嫉妬されてしまったのかもしれません。
その後家に帰り、奥さんの前でおいおい泣いてしまったのだとか。その様子が太宰治『美男子と煙草』の冒頭に書かれています(ここでは面と向かって悪口をいわれたということになっています)。泣きながら、
「ひとが、ひとが、こんな、いのちがけで必死で書いているのに、みんなが、軽いなぶりものにして、……あのひとたちは、先輩なんだ、僕より十も二十も上なんだ、それでいて、みんな力を合せて、僕を否定しようとしていて、……卑怯だよ、ずるいよ、……もう、いい、僕だってもう遠慮しない、先輩の悪口を公然と言う、たたかう、……あんまり、ひどいよ。」
太宰治『美男子と煙草』
このような決意をしたのだとか。『如是我聞』が書かれたのはこの数ヵ月後のことです。
このエピソードだけ見ると、なんだか子供みたいで微笑ましく思えるのですが、太宰治はこの年の6月に自殺しています。こういった「文壇いじめ」が自殺の原因のひとつだったのではないか……との説もあるようです。
老人になってから、「こんなこともあったよな」と振り返ればいい笑い話になったかと思うのですが、残念ながらそうはならず……。
ちなみに23年2月、『斜陽』が売れたことにより税務署から莫大な額の税金の通知書が届き、これを見た時も泣いたそうです。
芥川賞への執着
憧れの芥川龍之介。その名を冠した芥川賞が是非とも欲しい……! 無事に第1回芥川賞の候補になった太宰治。しかし結果はあえなく落選……。
この時、選考委員だった川端康成に「作者目下の生活に厭な雲ありて、才能の素直に発せざる憾みあった」……、つまり「私生活がちょっと荒れているよね」と評されたことに激怒。『川端康成へ』という文章で「刺す。そうも思った。大悪党だと思った。」などと書く。
この当時太宰治は26歳。『如是我聞』で志賀直哉にかみついたのが38歳。何かいわれたらやり返す、というのは根っからの気質なんでしょうかね。
しかし私生活が荒れているからという理由で受賞を逃したのだとしたら確かに納得いかないかも……(もちろん、それだけが理由ではなかった、と選考した人たちは主張するでしょうが)。
その後も太宰治は「芥川賞が欲しいほしい、どうしても欲しいんだよう!」と選考委員に手紙や作品を送り続けたといいます。佐藤春夫にはなんと4メートル余りもある巻紙を使って懇願の手紙を書いたのだとか……!(参考:産経ニュース)
しかし、芥川賞には第2回からしばらくの間、「一度候補に挙がった者は候補にならない」という規定があったそうで、結局太宰治が芥川賞を受賞することはなかったのでした。
番外編:「青鯖が空に浮かんだような顔をしやがって」(中原中也)
『小説 太宰治a』に載っていたエピソード。
中原中也と一緒にお酒を飲んでいた太宰治。その内、中原中也が酔って太宰治に絡みだす。太宰は中原中也を尊敬していたのですが、それにしても執拗に絡んでくるな……と恐らくちょっと困った顔になったのでしょう。
それを見た中原中也が、「青鯖が空に浮かんだような顔をしやがって」と太宰を罵倒したのだとか。
これをいわれた太宰治は更に困惑したことでしょう……。詩人ならではの言語センスですね。
これは太宰治というより中原中也のエピソードだと思いますが、強烈に印象に残ったのでここでご紹介してみました。
あとがき
上には出てこないのですが、猪瀬直樹さんが書いた『ピカレスク―太宰治伝』も面白かったです。
太宰の生い立ちから自殺に至るまでが年代順に書かれているので、はじめに読むならこの本が分かりやすいかと思います。
太宰は厄介な男であった。親切に面倒をみてやれば、引き下がるのではなく、よりいっそう寄りかかって来る。突き放すと悪態をつく。
猪瀬直樹『ピカレスク―太宰治伝』
という文章や、太宰治が「死を弄ぶ快感と苦痛の中毒であった」という言説が書いてありましたが、私もそんな気がします。
この記事の参考文献
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太宰治に興味がある方、興味がわいた方は、よかったらお読みになってみてください。
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