読もう読もうと思いつつ、難解そうでつい先延ばしになっていたサルトルの『嘔吐』を最近になってやっと読んだ。
サルトルや『嘔吐』については、ガッツリ研究している専門家などもいそうなので、特に私が書く必要はなさそうであるが、まァそんなこといったら私が書く必要があるものなんてなにひとつない訳であるし、不勉強の素人なりにいくつか思う所があったので、備忘録的に書き留めておくことにする。
肉体よりも表現?
この物語の主人公はアントワーヌ・ロカンタンという歴史学者である。
ロカンタンは「存在」というものにうんざりしている。
彼らは規則を定め、民衆主義(ポピュリズム)の小説を書き、結婚し、子供を作るなどという極め付きの愚行までやってのける。
サルトル『嘔吐』
彼ら=一般的な人々
私は自分が何もしたくないことをよく知っている。何かをするというのは、存在を作り出すことだし――そんな存在はもう充分にあるからだ。
サルトル『嘔吐』
彼は肉体関係を持つマダムや、元カノのアニー、たまに図書館で顔を合わせる独学者などとつき合いがあるけれど、そのいずれにもそれほど心を開いている風ではない。
ロカンタンは現実的に接触している彼らよりも、あるレコードの歌手と作曲家に親近感を覚えているように感じられる。
彼らは存在するという罪から洗われた。
サルトル『嘔吐』
彼ら=あるレコードの歌手と作曲家
もちろん、完全に洗われたわけではない――しかし、一人の人間に可能な限りで洗われたのだ。
サルトル『嘔吐』
肉体はただ在るだけでそれなりに罪深いということだろうか(グノーシス主義に通ずるものがある?)。
そしてロカンタンは、生身での接触がある人びとより、レコードの歌手と作曲家に思いを馳せる――。
ロートレックの「人間は醜い、されど人生は美しい」という言葉を思い出した。
「人びとに存在を恥ずかしく思わせるもの」を作る
ロカンタンは「生」を「無駄に与えられたもの」と感じている。
彼女に何を言うことができようか? 私は生きる理由を知っているのだろうか? 彼女のように絶望してはいないが、それは大したことを期待していなかったからだ。むしろ……与えられたこの生――
無駄に 与えられたこの生――を前にして、私は驚いているのだ。
サルトル『嘔吐』
しかしロカンタンは最終的に、「人生は虚しい、けれど私はこのレコードのような何かを作ろう」という決心をする。
どうして芸術なんかやるのか――。
創らなければ、世界はあまりにも退屈だから作るのだ。
岡本太郎『歓喜』
という岡本太郎の言葉を思い起こした。
そしてその何かとは、「生身の肉体」(子供)を作るという「極め付きの愚行」などではもちろんなく、
鋼鉄のように美しく、また硬く、人びとに存在を恥ずかしく思わせるものでなければなるまい。
サルトル『嘔吐』
とのこと。鋼鉄は感情を持たない。痛みも感じない。サルトルはそこに「美」を見出したのであろうか。
どうせ作るなら、「人びとに存在を恥ずかしく思わせるもの」(人間は鋼鉄のような美から程遠いと痛感させるようなもの)を作ろう……今後なるべく無駄な生が与えられないように……とするならば、反出生主義的なテーマを含んでいる文章とも読めなくもない――気がする。
先延ばしにしてきた甲斐があったというか、もっと若い頃に読んでいたらちんぷんかんぷんで訳が分からなかったと思う(もちろん今でも全てを理解できているとは思えないが……)。
上記の他にも、麻薬のトリップ中とでもいうようなエキセントリックな表現が出てきたりもして興味深かった。
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