上記の記事でも書いたが、人生とは基本的につらいものだと思う。
しかし既に運悪く生まれてしまった私たちは、つらいながらもどうにかしてその人生を楽しんだ方がいいとも思う。
そして、一見何もかもうまくいっているような人たちを羨んだりせず、また、一見楽して生きているような人たちを蔑んだりもせず、「皆生老病死という根本的な悩みを抱えて生きているのだな」と世の中の人々がいたわり合えるのが理想である。
生まれないのが一番幸せなのでは
しかしやはり人生とは基本的につらいものだし、面倒なことも多いので、実をいえば生まれないのが一番幸せなのではないだろうか。
人を生み出すことにより、その人につらい人生を背負わせることになる。
生まれなければ幸せになろうと頑張る必要もない。老後の心配もいらない。病気にもならないし死ぬこともない。
ひと昔前だったら、避妊の技術が発達していなかったり、世間体を気にしたりしてやむを得ず生んでいた人も多かったのだろうが、現代では生まない選択が比較的容易にできる。
わざわざつらい思いをさせるために子供を生むことは、生まれてくる子供にとってかわいそうなことではないか……?
人間関係や仕事、お金、病気などで悩まされ、その挙げ句に必ず死ぬと分かっているのに……その際十中八九痛かったり苦しかったりするのが分かっているのにもかかわらず、この世に子供を生み出すのは残酷なことではないだろうか。
映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク』では、主人公は目の病気で、それが遺伝すると分かっていながら息子を生んだ。分かっていながら何故生んだ……? というある人物の責めるような問いに対して、主人公は「赤ちゃんを抱きたかったから」と答える。
これを主人公のエゴと感じる方はかなりの数にのぼるのではないだろうか。
では一般的な出産がそうではないのかといえば、私はそんなことはないと思う。子供がいつか必ず死ぬと分かっていながら……しかもその子供が成長して、「自分がいつか死ぬ」ということを認識するのを分かっていながら生むのも、また相当な親のエゴといえないだろうか(バタイユによると動物と違って人間は「性と死について不幸な自覚を抱いている」)。
現代の少子化の大元の原因は、こういうことに薄々気付いてしまった人が多いからなのかもしれない(その他経済的な問題や親になる自信がないなど、分かりやすい原因ももちろん相まっているとは思うけれど)。
――というようなことを考えていて調べてみた所、反出生主義というものにあたるようです。
哲学者のショーペンハウアー(1788–1860)や思想家のシオラン(1911–1995)がこの主義を唱えていたようですが、実はそれよりもっと前から似たような考えを持っている方はいたようです。
以下で私が知っている反出生主義的な名言をいくつかご紹介します(順不同)。
反出生主義的な名言集
テオグニス
地上にある人間にとって何よりもよいこと、それは生まれもせず、まばゆい陽の光も目にせぬこと。
だが生まれた以上は、できるだけ早く冥府(ハデス)の門を通って、うず高く積み重なる土の下に横たわること。
テオグニス『エレゲイア詩集』
テオグニスはなんと紀元前に活躍したというギリシアの詩人だそうです。そんなに昔から反出生主義的な考えを持っている方がいたのですね。
しかもこれには元ネタである「大脚韻」というものがあったのだとか。古代ギリシアではある程度反出生主義が確立されていたということなのでしょうか。
ただ私はテオグニスの上の詩や、この下に出てくる旧約聖書「コへレトの言葉」について全面同意とはいえなくて、生まれないのが一番面倒がなくていいかなとは思うのですが、生まれた以上はできるだけ死ぬのを先延ばしにして楽しく生きた方がいい気がします。
コヘレトの言葉(旧約聖書)
既に死んだ人を、幸いだと言おう。更に生きて行かなければならない人よりは幸いだ。いや、その両者よりも幸福なのは、生まれて来なかった者だ。太陽の下に起こる悪い業を見ていないのだから。
『旧約聖書(新共同訳) コヘレトの言葉 4章』
こちらはなんと聖書に載っている言葉です。聖書にこのような厭世的な文章が出てくるとは意外だったのですが、上記だけでなく、「エレミヤ書」や「ヨブ記」にも悲観的な文章がちょこちょこ出て来ます。また、旧約聖書外伝に「死亡の日は誕生の日よりもましだ」という文章があるようです(ショーペンハウアー『孤独と人生a』で引用されていました)。
書かれた年代については諸説あるのですが、いずれにしろこの言葉も上記のものと同様紀元前には既に存在していたようです。
デイヴィッド・ベネター
善良な人々は、自分の子どもを苦しみから逃れさせるためにどんなことでもするわけだが、(中略)自分の子どもの苦しみ全てを防ぐのに保証された一つの(そして唯一の)方法は、そもそもまず第一に、その子どもを存在するようにしないことである
デイヴィッド・ベネター『生まれてこないほうが良かった』
後に出てくるシオランと共に、反出生主義者としてよく名前が挙がるのがこのデイヴィッド・ベネターです。
ベネター著『Better Never to Have Been』は2006年に出版されましたが、日本ではそれから11年を経た2017年、ようやく訳書『生まれてこないほうが良かった』が出版されました。しかし2018年7月現在、その日本語訳も既に絶版に近い状態にあるようです……。
反出生主義に興味がある私にとっては待望の訳書だったのですが、いざ期待に胸を膨らませて読んでみた所、文章がまわりくどくて少し分かりづらく感じました(本文からしてそうなのか、翻訳の問題なのかは分かりませんが……)。
お値段もまァまァするので、読んでみたい方はまずは図書館で借りたりリクエストしたりすることをおすすめします。
ホルヘ・ルイス・ボルヘス
鏡と性交は人間の数をふやすがゆえに忌わしい
ホルヘ・ルイス・ボルヘス『トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス』
ハインリッヒ・ハイネ
眠りは良いが、死はもっと良い。だが、勿論、
最善なのは全くもって決して生まれないことだろう。
ハインリッヒ・ハイネ『モルヒネ』
室生犀星
友よ、むしろ哀しきわれを生める
その母のひたひに七たび石を加ふるとも
かなしきわが出産はかへらざるべし
室生犀星詩集『滞郷異信』
胎内回帰願望とその諦めがひしひしと伝わってくる詩です。
芥川龍之介
「僕は生まれたくはありません。第一僕のお父さんの遺伝は精神病だけでも大へんです。その上僕は河童的存在を悪いと信じていますから」
芥川龍之介『河童』
河童の国では、生まれる前に父親が子供に「この世界に生まれて来るかどうか」を尋ねます(両親の都合ばかりを考えているのは勝手すぎるとの理由から)。ある河童の子供は、お腹の中でよくよく考えてから上記の答えを出しました。
人間にもこういう能力が備わっていればよかったのですが……。
太宰治
ああ、人間の生活って、あんまりみじめ。生まれて来ないほうがよかったとみんなが考えているこの現実。そうして毎日、朝から晩まで、はかなく何かを待っている。みじめすぎます。
太宰治『斜陽』
ブッダ
あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きもののいずれをも悩ますことなく、また子を欲するなかれ。況んや朋友をや。犀の角のようにただひとり歩め。
中村元訳『ブッダのことば スッタニパータ』
なぜ「子を欲するなかれ」なのか、その理由らしきものはその後の文章にあって、
- 愛情にしたがって苦しみが起こる
- 子や妻に対する愛著(あいじゃく)は、たしかに枝の広く茂った竹が互いに相絡むようなもの
だからだそうです。子供は悟りの妨げになるということなのでしょう(実際ブッダは妻子を捨てて出家しています)。
「自分の苦しみの種になる」というニュアンスなので、「生まれる子供のことを考えて」の反出生主義というより、「子供がいない方が自分の人生を謳歌できる」という考え方のチャイルドフリー寄りの名言といえるかもしれません。
しかしブッダの教えでは「二度と生まれないこと」がよしとされていますので、反出生主義が大前提といっても過言ではなさそうです。
ガンジー
子供を産むことは原罪的な呪いの行為であり慎むべきである
ガンジー(山折 哲雄『ブッダは、なぜ子を捨てたか』)
長男の再婚話が持ち上がった時に、ガンジーがその長男に向かっていったという言葉です。
ガンジーは子供が生まれた後に反出生主義的な考えを持つに至ったようなのですが、いわれた長男にしてみれば「おまいう」という感じだったかもしれませんね。
これが直接の原因かは定かではありませんが、その後ガンジーの長男は酒と女に溺れる自暴自棄な生活を送ったのだとか……。
Queen『Bohemian Rhapsody』
死にたくなんてないよ。生まれて来なきゃ良かったのに、いっそのこと。
Queen『Bohemian Rhapsody』
ショーペンハウアー
われわれ人間の全存在がむしろ無くもがなのものであって、これを否定し拒否するのが最善の知恵である……
ショーペンハウアー『幸福について』
元の文章では、その後「……ことを知れば云々……」と続きますが、かなり長いので後半部分は省略しました。
E.M.シオラン
そして反出生主義といえば有名なのがシオランです。
私は生を嫌っているのでも、死を希っているのでもない。ただ生まれなければよかったのにと思っているだけだ。
シオラン『カイエ』
私がこしらえようとしなかった子供たち。もし彼らが、私のおかげで、どんな幸福を手に入れたか知ってくれたなら!
シオラン『告白と呪詛』
生れないこと、それを考えただけで、なんという幸福、なんという自由、なんという広やかな空間に恵まれることか!
シオラン『生誕の災厄』
出生しないということは、議論の余地なく、ありうべき最善の様式だ。
シオラン『生誕の災厄』
死によって人間は、存在を開始する以前の状態に戻るにすぎない、というのがもし真実なら、純粋な可能性を固守して、そこから身じろぎもしないほうがよかったのではないか?
シオラン『生誕の災厄』
人間とは地球の癌だ。
シオラン『生誕の災厄』
人間は生きているとどうしても環境破壊をしてしまうので、人間よりも動物や植物が増えた方が地球に優しい気がします(参考記事:「事故から30年、チェルノブイリが動物の楽園に」)。
また上でも書きましたが、バタイユによると人は動物と違って「性と死について不幸な自覚を抱いている」ということで、やはり死を(危機に直面した時以外には)意識しない動物や植物の方が増えるのにふさわしいといえるのではないでしょうか(厳格な反出生主義者は動物も生まれない方がいいと主張するようですが)。
『生誕の災厄』には、上で紹介した以外にも、
- 朝から晩まで過去を製造しつづけるとは!
- 生れたという屈辱を、いまだに消化しかねている
など、暗ァい言葉がギッシリ詰まっています。
「生むな」といいたい訳ではありません
何故このような記事を書いたかといえば、
- 子供を生めなかったり、生みたくなかったりという方が、こういう考え方があると知ることにより、少し気が楽になるかもしれない
- 両親の義務感から生み落とされる(より)不幸な子供の数を少しでも減らすことができるかもしれない
- ガンジーのように、子供を生んだ後に親が反出生主義になった場合、親にとっても子にとっても悲劇の原因になりかねない。この考えを知った上で、それでも自分は子供を生みたい、という人が子供を生んだ方がいいのではないだろうか
と考えたからです。
子供を生みたい人は生んだらいいと思う。
しかし子供を生んだ人たちには、子供に生老病死という責め苦を負わせた負い目がある。
彼らには子供に無償の愛を全力で注ぐ義務がある。
『少年は残酷な弓を射る』という映画がある。
息子は生まれた時から母親に懐かず母親を困らせる。その原因ははっきりとは描かれていないが、恐らく母親の愛情不足である。
母親は出産前は世界を飛び回る冒険家だった。しかし息子が生まれたことにより家事と育児に縛り付けられるようになった。
母親の言動には「この子さえ出来なければ」という気持ちが透けて見える(出来ちゃった結婚なのだ)。
部屋の壁に世界地図を貼って冒険を夢見る母。幼い息子は母の関心が自分にないことに苛立ち地図をビリビリに破る。
母は息子のその行動にイライラを募らせ、ますます息子をかわいがることができない……。
ギクシャクした関係のまま息子は成長し……物語は衝撃のクライマックスを迎えることに……。
ただ単にご飯を食べさせて、学校に通わせて、やることはやってるでしょ、と義務を果たすだけではなく、子供には無償の愛を注いであげてほしい。たとえ子供が成長して犯罪者やニートになったとしても。
その覚悟がある人に子供を生んでほしい。
子供の数が減ったとしても、無償の愛を注がれた幸せな子供――結局最終的に待っているのは死なので、その幸せはまやかしにすぎないかもしれないが、だとしても――幸せと錯覚している人間の割合が増えた方が、きっと世の中が明るくなるはずだ。
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