「生まれないのが一番幸せ~反出生主義的な名言集」という記事をはじめとして、これまで何度か記事の中で反出生主義についてふれたことがあるのだけれど、私は実はガチガチの反出生主義者という訳ではない。反出生主義とチャイルドフリーの中間くらいの考えを持っている。
反出生主義 | 生きること=苦しいことなので、まだ見ぬ子供のためを思い子供を生まないという考え方 |
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チャイルドフリー | 子供がいないほうが自分の人生を謳歌できるという考え方 |
どちらも子供を生まないという点は共通しているが、その理由が異なっている。
どちらかというとチャイルドフリーのほうが「自分本位」という感じがするので風当たりが強そうである。
反出生主義はちょっと哲学的で深刻な雰囲気があるので、表立ってはそれほど叩かれないかもしれないが、それは決して賛同する人が多いからという訳ではなく、「暗い」「考えすぎ」「関わらないでおこう」といった感じで敬遠されるからにすぎないだろう。
私の場合は、まず
- どうせ死ぬのに生まれるのはかわいそう
- 老いる
- 病気にもなる
- 働いたり勉強したり家事をしたりしなくてはならない
- 癖毛や低身長や広汎性発達障害が遺伝したらかわいそう
という反出生主義的な理由が根底にある。そこに、
- PTAやママ友付き合いが面倒くさそう
- 体型が変わりそう
- お金がかかる
- 子供が行きたがりそうな施設やイベントに興味がない
- そもそも子供がそんなに好きではない
というチャイルドフリー的な理由が上乗せされてくる。
その他、ちょっと細かいことだけれど、子供がやりたいことが反社会的なことだったら生きづらいだろうな……なんてことも考えたりする。
子供は自分が決めた訳ではないルール(法律や常識、道徳など)に生まれながらに縛られることが決定している。しかしもしかしたら子供が興味を持つ行為が犯罪に該当するかもしれない。だとすると子供には好きなことをする自由がないことになる。
だからといってこの世が無法地帯になっても困る。人間が存在する限りやはりこういったルールは必要である。となると人間は本当に自由になることは決してできないということである。それが分かっていてこの世に子供を生み落とすのは残酷なことではないだろうか?
子供が犯罪に興味を持たない可能性もある。常識や道徳に反発しない可能性もある。しかしもしもそうでなかったら――?
好きなように生きられない、生まれなければよかったと子供が思ったとしてももう遅い、生んだ後となっては、子供を胎内へかえすことはもはやできないのだ。
子供がニートになってもいやだし、過労死してもいやだ。
犯罪者になってもいやだし、被害者になってもいやだ。
いじめっこになってもいやだし、いじめられっこになってもいやだ。
そのどれにもならない可能性のほうが高いかもしれない。しかし世の中にこういった問題があることは事実である。
自分や自分の子供さえそうならなければそれでいいのだろうか。世の中にそういった問題があるにもかかわらず、自分にはどうにもできない、私は無力であると感じる、子供もそういった無力感を抱えるのではないだろうか。その無力感をどうすればいいのかと問われたらどうするのか、他人のことは放っておけというのか、ただ怖いわね、かわいそうねといってすませるのか。私は子供になんと答えればいいのだか分からない。
子供がいたら世間体がいいだろうとは思うけれど、恐らく私の両親もそう考えて兄と私を生んだような気がする。そして兄も私もいい大人になった今でも生きづらさを抱えている。
世間体のために子供を生むという人は、昔ほどではないけれど現代でも結構いるのではないかと思う。しかしそういった自転車操業的な出産、負の連鎖は、いつか誰かが勇気を出して断ち切らなければならないのではないだろうか。
それと期限がある程度決まっているので、焦って生んでしまう人もいそうである。バーゲンセールのようなものだ。今生んでおかないとのちのち後悔するかも……という。心の底から子供が欲しい訳ではなくて、損するのではないかという不安が動機の出産。
またせっかく女に生まれたのだから出産を経験してみたいという好奇心。
周囲に幸せだと思われたい見栄。
そういうものでしょ、と深く考えなかったり、老後の面倒を見てもらいたかったり……ということもあるだろうか。
いずれにしろ生まれてくる子供にとってはたまったものではない。芥川龍之介『河童R』のように、子供がこの世に生まれるかどうかを自分で選べるとしたら、そのほとんどが「僕は生まれたくはありません」と拒否するのではなかろうか。
どういう理由にしろ、生みたい人は生めばいい。しかし子供に生老病死という責め苦を負わせる責任は大きい。生んだからには何があっても全力で子供を愛してあげてほしい。
親に無条件に愛されなかった子供は自己肯定感が低いという。そして自己肯定感は大人になってからではなかなか培えないものだという。自己肯定感が低いと人生を楽しみづらいし、生きづらい。
そういうかわいそうな人間を増やすことはよくない。
私は反出生主義もチャイルドフリーも、同意しない他人に押し付けようという気持ちはさらさらない。子供を生む、生まないということに限らず、他人に対して「これはこうすべき」と強制するようなことはあまりしたくないし、されたくもない。法にふれたり周囲に迷惑を及ぼさないのであれば、人間は基本好きなように生きればいいと思う。
しかしそうはいいつつも、子供を生むか生まないかということに関しては、なるべくなら、本当に子供が欲しくてほしくてたまらない人にだけ子供を生んでほしい――とつい考えてしまう。
世間体だとか、バーゲンセールだとか、せっかくだからだとか見栄だとか、そういう理由で子供を生もうかどうか迷っている人は子供に無償の愛情を全力で注げるかどうか(子供が将来犯罪者になったとしてもニートになったとしてもいじめっこになったとしても)をよく考えてみてほしい。
子供を生むかどうかについて真剣に考える人が増えるとますます少子化がすすむかもしれないが、よくよく考えた末それでも欲しいとなった親に愛されて育った幸せな子供の割合が増えたほうが世の中が明るくなるだろう。
そして人間は幸せに、ゆるやかに滅亡していくのが、人間にとっても地球にとってもいいのではないかと思う。
以前、チェルノブイリの立入禁止区域が動物の楽園のようになっているという情報を目にして、人間がいないほうが何もかも丸く収まるのだなという気がした。
それに人間は動物と違って思考や言葉があるから厄介だ。何かにつけて争うし、自分がいつか死ぬという残酷な事実をどうしても意識してしまうものだから。
私は上記で書いたような理由から子供が欲しいと思ったことはない。生き物としてはおかしいのかもしれないが、本能より理性が勝っているということだから、人間の中でもより人間的といえるのではなかろうか。
いやしかし動物より人間のほうが優れているなどという気持ちはもちろんない。人間は矛盾をはらみすぎている。動物はたくましくて潔い。
「生まれないのが一番幸せ~反出生主義や虚無的、厭世的な名言集」という記事でも書いたけれど、反出生主義やチャイルドフリーという概念があると知ることにより、気が楽になる人もいるのではないかと思う。自分と同じようなことを考えている人が世の中に割とたくさんいるのだ、と思うと心強いのではないだろうか。
反出生主義にしろ、チャイルドフリーにしろ、なかなか周囲におおっぴらに表明しづらい考え方なのだけれど、こういう考え方が当たり前のように世の中に浸透すれば……多様性を許容する社会になれば、逆説的であるけれど、子供を生みやすくなって、子供を生む人が増えるかもしれない。
しかしどんな世の中になったにせよ、子供に「どうせ死ぬのに何故生んだのだ」と責められたら返す言葉がないので、私はやはり子供を生むことはないだろうと思う。
チャイルドフリー的な名言
最後に、チャイルドフリー的な名言を載せておきます。
- 澁澤龍彦
- 稲垣足穂
子どもを生むなんてことは、どう考えたって、それほどりっぱなことではありません。
澁澤龍彦『快楽主義の哲学』
実際澁澤龍彦さんは2度結婚していますが、どちらの奥さんとの間にも子供はいなかったとのことです。
彼ら(同性愛者)は子孫を認めないペシミストであるのかもしれない。しかし(中略)「目的が達せられた以上、子供など何になる!」
稲垣足穂『少年愛の美学』
けれども一般としての女性は、彼女らのエネルギーと時間を人間複製のために費いすぎている。
稲垣足穂『少年愛の美学』
「人間複製」という言葉がなんとも無機質な雰囲気をかもし出しています。
……といいつつ稲垣足穂には子供が2人いたのだとか。
しかし浮気はする、奥さんが入院しても見舞いにも行かない、奥さんが亡くなっても「家に小さい子供二人残して先に死んでやかましくてたまらぬ」とぼやいていたそうなので、恐らくロクに面倒は見なかったのでしょう……。
結婚期間中避妊具をつけ通したという永井荷風を見習ってほしかったものです。
永井荷風と稲垣足穂のエピソードは『知識人99人の死に方』という本に載っています
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