たまに反出生主義者に「死ねばいいのに」といっている人を見かけるが、反出生主義者は死にたい訳ではない。というか、むしろ逆に死にたくないのである。全員がそうかどうかは分からないけれど、少なくとも私はそうだ。死ぬ前に病気になったり苦しい思いをしたり、死後自分の思考が途切れてしまったりということを想像すると恐ろしいのである。
反出生主義者として有名なシオランの著書『生誕の災厄』に、
自分が少なくとも永遠の存在ではないと知っていながら、なぜ人間は生きてゆけるのだろう。私にはどうしてもこれが理解できない。
シオラン『生誕の災厄』
という文章が出てくるが、私はこれにいたく共感した。
死ぬのが怖くない人っているのだろうか。ドMの人だろうか。なので私はドMの人が羨ましいのである。究極の苦痛が究極の快楽に感じられるだなんて……!
人生の最後に最大の苦しみ=快楽が待っていると思えたら、どんなにか生きることが楽しくなることだろう。
しかし『殺し屋1』に出てくるドMキャラ・垣原でさえ、
最後の最後はイチの迫力に気圧されて、快楽に溺れる余裕などなさそうに見えた(漫画版。映画版はそこそこ楽しそうだったけれど)。
死の直前になったら、ドMといえどもやはり「想像以上にキツイ」となって気持ちいいどころではないかもしれない。
老いもせず、病気もせず、食べ物を食べても食べなくても何の支障もない体で――いや、なんなら肉体なしでただ思考する存在として永遠に生き続けられるのが理想である。
しかし実際の人生といったら、できそこないの吊り橋のようなものではないか。
乗せられた途端に後ろ側が崩れてきてもう後戻りはできない。前に進み続けるしかない。途中で雨や雪やいろんなものが降ってくる。台風の時もある。それに耐えて進む。
追い立てられて追い立てられて進み続けて、最終的に吊り橋は中途半端な所で途切れている。結局足場がなくなって真っ逆さま――というような。
自分は気付いたら乗せられていたので仕方なく進み続けるけれども、そんなできそこないの危険な吊り橋に大切な(になるであろう)我が子を乗せるのはやめておこう、せめて加害者にはなるまい――というのが反出生主義といえるのではないだろうか。
スティーブン・キングの『死のロングウォーク』がこんなような感じの話だった気がするのだが、今調べたら少年たちは自ら志願したということで、ちょっと趣が違うだろうか。ただ人生の理不尽さや、やりきれなさとでもいうものは感じられた本だったと思う(だいぶ前に読んだのでうろ覚えなのだけれど……)。
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