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意識や思考がある限り人は幸せになれないのかもしれない~SNSでの自慢や嫉妬について

time 更新日:  time 公開日:2017/01/26

先日、「SNSにネガティブな実態も 半数以上が他人に嫉妬」という記事がちょっとした話題になっていた。
この手の記事はそんなに珍しいものではなく、割とちょくちょく目にする気がするが、今回改めてSNSで自慢をする人について考えてみたので、以下に書いてみようと思う。

SNSで自慢をする人

SNSで自慢をする人の心の奥底には、「復讐心」が渦巻いているのではないかと私は思う。
昔自分を虐げたり傷つけたりした相手に、「自分は今こんなに幸せなのだ」と見せつけることによって、その相手を悔しがらせ見返してやりたいという気持ちがあるのではないだろうか。

何かの賞を受賞したり、何かしらの特技を見出されてマスコミにでも取り上げられれば、わざわざ「自分は今こんなに幸せなのだ」とアピールする必要はないのだが、そのように取り上げられるのはほんのひと握りの人物である。
その他の人間は自分で自分が幸せであるとアピールしない限り、見返したい相手にそれが届かない訳である。

で、その相手が「あいつは今幸せになったのだな」と知ったとして、「幸せになったんだね、おめでとう」と本人に伝えるかというと、恐らく伝えない。悔しければ悔しいほど伝えないのではないだろうか。
この場合、本人はとっくに目的を果たしているにもかかわらず、自分が幸せであることが相手にきちんと伝わったかどうか分からないので、延々と幸せアピールをし続けなければならない。そのために周囲の人々に鬱陶しがられようとも……。

ちなみに、「何かの賞を受賞したり、何かしらの特技を見出されてマスコミにでも取り上げられたり」という人物は、以前書いた記事「『本当の強者』は猛禽類の冷酷さと寄生虫のしたたかさを併せ持つ」でいう所の『本当の強者』だと思う。

人間の強者・弱者の図

彼らは賢いので、自慢をして大多数の弱者の反感を買うようなことはしないし、する必要もない。余裕があるからである。しかし裏を返せば、自分はもう絶対に安泰であるというおごりがあるともいえる。そしてもちろん、そのおごりを周囲に悟られるような振る舞いもしないだろう。

彼らに比べれば、SNSで自慢をするような人はかわいいものなのかもしれない。

「自分は幸せなのだ」という確固たる気持ち

SNSで復讐心から幸せアピールをしている人に話を戻す。
もしかしたら見返したい相手が「幸せになったんだね、おめでとう」といってくる可能性もある。しかしそれは相手がさほど悔しがっていないからこそいえるのである。本人は一時的には溜飲が下がるかもしれない。しかしその内目的を果たしていないことになんとなく気が付くし、それに本当は相手を悔しがらせた所で虚しいだけだということも薄々分かっている。

それなのに何故幸せアピールなどということをしてしまうのかといえば、本人の心の奥底に、相手に虐げられたり傷つけられたりした時の自分が、子供なら子供のままの姿で、思春期なら思春期のままの姿で、成長できずに留まっているからではないだろうか。

復讐は何も生み出さない」というのは陳腐な言い回しであるが恐らく真実だ。相手に復讐するのではなく、本当はこの「昔の自分」を癒してあげるべきなのだ。そのためには、人に幸せを見せつけるのではなくて、また「人に幸せと思われるから幸せ」なのでもなくて、「自分は幸せなのだ」と心の底から感じること、それが癒しに繋がるのではないかと思う。

また、SNSで知人の自慢(や楽しそうな姿)を見て暗い気持ちになってしまう側の人も、やはり「自分は幸せなのだ」という確固たる気持ちを持っていれば、誰かの自慢を目にしても、「この人も幸せなんだ、よかったね」くらいに思えるのではないだろうか。

しかしそれができたら苦労しない。ということは……

では「自分は幸せなのだ」と心の底から感じるにはどうすればいいのか。これは私もことあるごとに考えていて、幸せについての記事もいくつか書いているのだけど、

……心の底から「自分は幸せなのだ」と思うのはなかなか難しい。

私は以前、思考を目下一番の厄介ものと感じている女性が登場する「椿と目覚まし」という短編小説を書いたことがある。

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そして割と最近、「誰か『人類補完計画』を実行してくれないものだろうか」という記事を書いた。

また「どろどろの沼のような不安」という記事では、

園子温監督のある映画では、表面的には何不自由のない生活を送っているように見える女性がどんどん堕ちていって、最終的に寂れた漁村で売春婦になる。子供に放尿する所を見せたり客に殴られたりしながらもヘラヘラとしているその様子はまるで白痴のようであるが、何不自由のない生活を送っている頃よりもどことなく幸せそうに見える。

こんなようなことから、堕ちる所まで堕ちた方が、周りからはどう思われようとも、「不幸になるかもしれない」という不安から解放されて逆に幸せなのかもしれない

という文章を書いた。

そして先人が残した文章に以下のようなものがある。

思索することを知りはじめた彼等はたしかに不幸ではあった。
香山滋『恐怖島

たんに意識の過剰ばかりでなく、およそいっさいの意識は病気なのである。
ドストエフスキー『地下室の手記

日々の小さな幸せを見つけよう」というのも私の本心である。しかし油断するとつい、「意識や思考というものがある限り、人は心の底から幸せになることはできないのかもしれない」という考えが頭をもたげてくる。

人間は(狂わない限りは)意識や思考から逃れられない。
ということは、やはり生まれないのが一番幸せなのかも……?

生まれないのが一番幸せ~反出生主義的な名言集

SNSから始まり、最終的に反出生主義が出てきて……とずいぶん話が飛躍しましたが、もう既に生まれてきてしまった私たちは、とりあえずだましだまし楽しく暮らしていきましょう(以前にも何度かこんなことを書いている気がしますが……)。