結局のところ、諸君、何もしないのがいちばんいいのだ!
ドストエフスキー『地下室の手記』
これまでこのブログで反出生主義についての記事をいくつか書いてきた。
しかし自分でも、自分がいつからこういう考えを持つようになったのかははっきりしない。
「自分の考えが反出生主義というものに近い」という確信を得たのは、シオランの『生誕の災厄a』を読んだからに他ならないが、反出生主義的思想が芽生えたのは、何かこれといったきっかけがあった訳ではない。面倒だったり理不尽だったりという細かい出来事が積み重なって、徐々に徐々に反出生主義的な考えに傾いていったに違いない。
例えば、昔は本やCD、DVDなどを欲しいと思ったらすぐに買っていたのだけれど、引っ越しの時に荷物になるので大量に処分した。すると大半の本などは特に手元に置いておかなくても困らない、むしろない方が部屋の中がごちゃごちゃしないで済むことに気付いた。大抵の本は図書館で借りることができる。お金もかからず部屋もすっきりして一石二鳥である。
また以前煙草を吸っていたのだが、これもやめたら節約になるし体の調子も良くなった。
長時間我慢していた煙草を吸う瞬間、ささくれだっていた心が「ハーッ」と落ち着く瞬間が好きだったのだけれど、今思うとこれは、イライラを故意に作り出してマイナスの状態に陥らせ、煙草を吸うことによりゼロの状態に戻しているだけのことだ。マイナスからゼロになることで何かを得た気分になっていたのだろうが、実は何のプラスにもなっていない。はじめから煙草を吸わなければずっとゼロのままだ。
それと最近化粧するのが面倒くさく思えてきた。化粧して、それをメイク落としで落とす。そして化粧もメイク落としも肌に悪いという。なんだそりゃ。だんだんばかばかしくなって、今では洗顔フォームで落とせるパウダーで済ませるようになった。
また私は寝るのが好きなのだが、生まれなければずっと寝ているような状態だった訳で、それは至極安らかな世界に思える。出生によって無理やり起こされて、勉強しろだの仕事しろだの他人様の役に立てだの迷惑をかけるなだの不摂生すると病気になるだの既に決められているルールを押しつけられて窮屈な人生を送る破目になった。死ぬ前何日か(下手したら数年)は病気で苦しむ確率が高い。そして最後は恐らく映画やゲームのような感動的なエンディングが待っていることはなく、苦しみ抜いた末にいきなりブチッと視界が暗転して終わり。なんという虚無……!
人間は「穴を掘ってその穴を埋める」というような作業が精神的にものすごく堪えるらしいのだが、人生自体が「生まれて死ぬ」、すなわち穴を掘って埋めるようなものではないか――。
というようなことを思ったり気付いたりする内に、いつしかこの記事の冒頭で引用したドストエフスキー『地下室の手記』の主人公のような心持ちになっていったのかもしれない。
結局のところ、諸君、何もしないのがいちばんいいのだ!
ドストエフスキー『地下室の手記』
殺処分を減らすために野良猫の去勢・避妊手術が行われているのと同じように、人間だってどうせ死ぬのが分かっているのだから、はじめから生まない方がかわいそうな人間を増やさなくて済むということではないだろうか。
ただ、人間の出生が手放しに祝福されるべきものであるならば、ダウン症児や学生の妊娠やアフリカ大陸の人口爆発などの是非が問われることは起こらないはずなので、実は上のようなことをわざわざいうのは野暮なのかもしれない。
煙草、化粧、ショッピング、そして人生――無駄なものを無駄と思わず楽しめる人は強い。無駄と気付いてから無駄を楽しむのはなかなか難しいのだけれど、それでもどうせやるなら穴を掘ってその穴を埋める作業をできるだけ楽しくやりたいものである。
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