私が考える「卑屈」
世の中の人を順位付けして、「自分は下の方だ……」とクヨクヨしているのが卑屈。
こういう人は「自分は上の方にいる」と思うと逆に傲慢になる。
私が考える「謙虚」
謙虚な人は自分も含めて、人を順位付けしない。
この人にはこういう良い所があって、この分野ではこの人には敵わない……でも自分には自分の良い所がある、と(無意識的にかもしれないが)思える。
なので、すごいと思った人を素直に褒めることができる。
自分が褒められた場合も、「自分はすごい人間なのだ」などとおごることなく、「自分にはまだまだ未熟な所がたくさんある」という風に考える。
一見ダメに見える人に対しても、「誰々さんはここがダメだからダメな奴だ」と決めつけたりせず、「誰々さんはここはダメだけれど、こういう良い所がある」と(無意識的にかもしれないが)思える。
他人の悪い所ではなく良い所を探そう、とはよくいわれることだけど、それを自然とできるのが謙虚な人なのかもしれない。
「自然と」がミソ
この「自然と」というのがミソで、無理にやろうとすると卑屈な感じになってしまう。
自然と人の良い所を探せる人間になれるように人生経験を積むしかない。
そうなれるまでは、無理に謙虚なフリをするよりかは、あるがままの気持ち……それが毒や弱音でも……を吐いていた方がまだマシかもしれない。
何も表に出さないよりは賛同者が現れる可能性がある。
しかし反発されたり、鬱陶しがられることも多いかもしれない。
自然と謙虚になれない内は、きっと「口は災いのもと」を実践している人が賢い。
賢いけれど、孤独を感じるかもしれない。
反発もされなければ、賛同されることもないからだ。
自分の胸の内を誰にも明かすことなく一生が終わることもあり得る。
それが虚しいことなのか、それとも穏やかでいいことなのかは、その人自身がどう感じるかによるだろう。
私が考える「自己肯定感」
卑屈な人は、「私には良い所がない」、もしくは「これができるけれど、こんなことができても何の役にも立たない」とか、「これくらいのレベルのことができてもなァ……」と考えがちなのではないだろうか。
これは、最悪何の取り柄もなくても、誰にも褒められなくても、世間に認められなくても、自分は存在していていいんだという自己肯定感が土台にないからかもしれない。
この自己肯定感は、幼少期親に無条件に……いい子だからとか、何かの才能があるから、ではなく……無条件に愛されていたことで培われるものだと思う。
この自己肯定感が土台にあるかないかが、謙虚になるか卑屈になるか、ひいてはリア充か非リア充になるかどうかを左右する気がする。
親に無条件に愛されなかった人が成人になった場合、自分で自己肯定感を培っていくしかないのだと思うが、これがなかなか難しい。
成功体験を積み重ねていけばいいのかもしれないが、それだと結局「何かができたから自分を肯定する」という条件付きの自己肯定感ということになりそうである。
これは私自身の現在進行形の課題であり、今の所解決の糸口はつかめそうにない。
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