有名人が逮捕されたり、不祥事を起こして大変なバッシングを受けたりしているのを見ると、彼らのように浮き沈みの激しい人生と、自分のようにあまり浮き沈みのない人生、一体どちらが幸せなのだろう……などということをつい考えてしまう。
図にするとこんな感じ
青……浮き沈みの激しい人生
赤……あまり浮き沈みのない人生
あまり浮き沈みのない自分から見ると、浮き沈みの激しい人生は疲れそうに思えるけれど、大きな喜びを知っている分、彼らの方が幸せといえるのだろうか。
それともやはりどん底の時がキツイだろうか。
結局はプラスマイナスゼロ?
いろいろ思う内、浮き沈みが激しかろうが激しくなかろうが、結局はプラスマイナスゼロなのかもしれない……という考えが浮かんでくる。
そして先ほどの図の中心あたりにゼロの線を書き足したくなる。
一見正しいような気がするが、なんとなくしっくり来ないものがある。
そこで0の位置をずらしてみることにする。
基本的に人生はつらい
0の位置を上にずらすとどうだろう。
どちらにしろ、マイナス圏でウロウロしているだけなのだ……という風に見えてくる。
この方がしっくり来る気がする。
なぜかというと、よくいわれることだが、「悩みがない人なんていない」からだ。
お金だとか人間関係だとか、そういった後天的な悩みもあるだろうが、もっと根本的な問題がある。
お釈迦様が仰ったという「生老病死」を含む「四苦八苦」に、誰もが生まれながらにして悩まされているのだ。
何もかもが順調で幸せそうに見える人生も、
ピンク……何もかもが順調で幸せそうに見える人生
実はマイナス圏で蠢いているに過ぎない(お釈迦様はある国の王子として生まれ、傍から見れば何の不自由もなく暮らしていたはずなのに、人生について深く思い悩んでいた)。
外国の人から見れば、日本に生まれただけで幸せなように思えるかもしれないが、日本人の幸福度はそれほど高くないようである。
日本人の「幸福度」は先進国で最下位 「幸せはお金で買えない」国民性なのか
それと同じように、私たちから見て「幸せに違いない」と思える人も、実際に幸せとは限らない。
きっとどんな人でも、意識するかしないかや、程度の差はあるだろうが、「どうせ死ぬのに何故生まれたのだろう」というモヤモヤを根底に抱えながら生きているのではなかろうか。
昭和十年十二月十日に
ぼくは不完全な死体として生まれ
何十年かかゝって
完全な死体となるのである
寺山修司の詩「懐かしのわが家」より
なんだか暗い話のようだけど……
上記を踏まえると、
この男に言ってやったものだろうか。人生の意慾せらるべきものではないゆえんをお前に教えてくれるというちょうどその点に、人生というものの価値があるのだということを?!
ショウペンハウエル『自殺について』より
なんて厭世的なことをいう哲学者の気持ちも、ちょっとは理解できるような気がしてくる。
暗い……
しかしつらいのが当たり前と分かっていれば、つらいことが起きてもあまり落ち込まずに済むし、楽しいことが起こったら、それはとてもありがたいことだと、逆に前向きに考えることもできるのではないだろうか。
また、イケ好かない誰かに対しても、「アイツだって日増しに老いていき、いつか病気になり死ぬのだ。コロッといく可能性もあるが、とにかく確実に死ぬのだ」と考えれば、諦めにも似た優しい気持ちを持つことができないだろうか。
そして人生とは、
上の図のように、0をどんどん下にずらして、最終的に「どんな状態でも幸せなんだ」と(真実はどうであれ)思い込めるようにする修行なのかもしれない。
その思い込みが「悟り」というものなのかもしれない(全然違うかもしれない)。
かくいう私は、上記の悟りの境地には到底達していない。
死ぬまでに達せるかどうかも危うい。
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