「他人に理解してもらえるはずがない」という気持ち
以前「探偵小説を擁護すべきだったのだろうか」という記事を書いた。
「探偵小説」とは、大正~昭和初期にかけて流行した小説のジャンルである。現代でいう所の推理小説のように謎解きに重点をおいた「本格探偵小説」と、変態心理や猟奇的な描写などに焦点を当てている「変格探偵小説(不健全派などともいう)」があり、私は後者が好きである。
で、冒頭の記事でも書いたのだが、以前「探偵小説が好き」という話をした所、ある人に「探偵小説っていらなくないか」といわれて面食らったことがある。
「純文学(という高尚な文学)があるのだから、探偵小説(のような俗っぽい小説)ってこの世にいらなくないか」ということらしい。
私は現実にこのようなことを言う人がいるのかとビックリしたのと、こういう人には何を言ったって聞きやしないだろうという面倒な気持ちになったことから特に反論しなかったので、そこから議論や口論などには発展しなかったのだが、これ以後も似たような状況になったことが(探偵小説とは全く違う話題だし、相手はバラバラだけれど)何回かある。そのたびに「○○を擁護した方がよかったのだろうか」とか、「もっと自分の主張を押し通した方がよかったのだろうか」などとちょっとだけモヤモヤすることになる。
しかし例えば、探偵小説を頭から否定している人に「江戸川乱歩と夢野久作以外に有名な探偵小説家って誰かいるの?」ときかれたとして、「小酒井不木や渡辺啓助、海野十三や香山滋という作家がいます。コレコレこういう小説を書いていて、私は面白いと思うのですが」と返した所で、その人が「へえ、じゃあ読んでみようかな」という気になるとは到底思えない。それでも一応、「小酒井不木とか……ご存知ですか」とモニョモニョいってみるものの、「知らない(フフン)」と鼻で笑われて終わりになってしまう(ここでモニョモニョしてしまうのは私の反射神経が鈍いせいもある……というか、それが一番の原因かもしれないが)。
こうやって真っ向から何かを否定してくる人は、「相手の意見を聞いて、納得できたら考えを改めよう」などという気はさらさらないように見える。ただの議論好きか、誰かを攻撃することによって快感を得る精神的サディストなのではなかろうか。
こちらが探偵小説について熱く語ったとしても議論は平行線だろうし、もし相手を説き伏せることができたとしても(何をもって説き伏せたとするかは分からないが)、それが私にとって一体何になるというのだろう。単に疲れるだけという気がする。
それに自分や自分の身内が探偵小説を書いている訳でもないし、別に私がかばう必要はないな……と一歩ひいて考えてしまう所がある。いや、恐らく私の場合、もし自分や自分の身内が書いていたとしても、躍起になって探偵小説の魅力を語るなどということはしないだろう。
それは根底に、「自分は人と少し違うから、どう頑張ったって自分や、自分の好きなものを他人に理解してもらえるはずがない」という気持ちがあるからかもしれない。
変わり者について
私はものすごく変わっている訳ではない。私の中でものすごく変わっている人といえば、以前テレビで見たのだが、無人島でたった1人、裸で暮らしている男性がいた。ここまでいったらまず間違いなく「ものすごい変わり者」といえるだろう。
私はそこまでものすごい変わり者ではないけれど、やはりちょっとだけ変わっているような気もする。
変わっているというか、何故か世の中に馴染めない、居場所がないという感覚を昔から持っていた。
なので自分が何かを力説したとしても、世の中の人には分かってもらえるはずがないという諦めのようなものが心に根付いている。
ところでE.M.シオランの『生誕の災厄』という本に以下のような一節がある。
はるかな昔から私は、この世が自分むきに出来ていないのを、どうしてもこの世に慣れることができないのを自覚してきた。私が多少なりとも誇りを持つことができたのは、正にそのゆえだし、さらに言えば、そのゆえでしかなかった。
E.M.シオラン『生誕の災厄』
これを読んだ時にはハッとした。
なんだか仲間を見つけたようで嬉しくもあったのだが、それと同時に、
- 「馴染めない馴染めない」といいつつ、心の奥底には「世間一般に馴染みたくない」という妙なプライドがあるのかもしれない。
- 「分かってもらえない」といいつつ、心の奥底では「そう簡単に分かられてたまるか」という妙なプライドがあるのかもしれない。
こういう妙なプライドがあることが、頭に浮かんだことを言おうか言うまいか迷って結局言わずに済ませてしまう原因のひとつなのかもしれない。
……なんてことを考えてしまい、なんだか自分、こじらせてるなァ……とちょっぴり恥ずかしくなってしまった。
シオラン位盛大にこじらせていれば、中二病も立派な文学になるのだが……。
私はものすごい変わり者でもないし、ものすごい中二病でもない。何においても中途半端な人間なんだなァ……と思った次第です。
ちなみに、石川啄木も上のシオランの文章に似た歌を詠んでいます。
世わたりの拙きことを
ひそかにも
誇りとしたる我にやはあらぬ
石川啄木『一握の砂』
ところで「明るい変人」っていいですよね。
シオランや、絶望名人カフカのようにトコトン暗い人にも惹かれるものがありますが、逆にトコトン明るい人にも憧れます。自分が中途半端なので、極端な人に興味がわくのかもしれません。
岡本太郎さん、マック赤坂さん、ジャガーさんが私の中の「明るい変人三大巨頭」です。
「ホラー映画の画質や演技などについて思うこと、その他岡本太郎の言葉など」という記事でも書いたのですが、私は岡本太郎さんの『今日の芸術』に出てきた文章、
今日の芸術は、
うまくあってはいけない。
きれいであってはならない。
ここちよくあってはならない。
岡本太郎『今日の芸術』
にいろいろな意味で影響を受けている気がします(それがよかったのか悪かったのかは分かりませんが……。でも本はもちろん名著です)。
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